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柳宗悦日記 2020/10/7

柳宗悦を読み、抜書きし、記す

『民藝四十年』p.19

ーー私がその器を淋しく見つめる時、その姿はいつも黙祷するかのようである。『神よ、われらが心を遠く遠く御身の御座にまで結びつける事を許されよ。見知らぬ空に在ます御身のみは、われらを慰めることを忘れ給わぬであろう。御胸にのみわれらが憩いの枕はあるのである。』たわやかな細く長く引く線は、そう祈るが如く私には思える。これらの声が聞こえる時、どうして私はそれらの作品を、私の傍から離し得よう。おお、私はそれを温めようとて、思わずも手をそれに触れるのである。ーー


この秋から若松英輔さんの「読むと書く」の講座にて、この『民藝四十年』を読んでいる。その講座のなかで、この箇所に対しての参考文献として神谷美恵子さんの『うつわの歌』があげられていたので、本を借りてきて読んでみた。

うつわの歌

私はうつわよ、
愛をうけるための。
うつわはまるで腐れ木よ、
いつこわれるかわからない。

でも愛はいのちの水よ、
みくにの泉なのだから。
あとからあとから沸き出でて、
つきることもない。

うつわはじっとしてるの、
うごいたら逸れちゃうもの。
ただ口を天に向けてれば、
流れ込まない筈はない。

愛は降りつづけるのよ、
時には春雨のように、
時には夕立のように。
どの日も止むことはない。

とても痛い時もあるのよ、
あんまり勢いがいいと。
でもいつも同じ水よ、
まざりものなんかない。

うつわはじきに溢れるのよ、
そしてまわりにこぼれるの。
こぼれて何処へ行くのでしょう、
ーーそんなこと、私知らない。

私はうつわよ、
愛をうけるための。
私はただのうつわ、
いつもうけるだけ。

柳のいう器を神谷さんのうつわと重ねあわすことで、「うつわ」の存在の深みを思う。

グラフィックデザイナーの杉浦康平さんは「かたち」とは「かた」+「ち」であるといった。ここでいう「ち」は、「血」であり「乳」であり「いのち」の「ち」。「型(かた)」に命がこめられたものが「かたち」である。「うつわ」も「かたち」のひとつなのか。もしくは「ち」のおとずれを黙して待ち続ける「かた」といったほうがいいのかもしれない。

もうひとつ。今日は私の誕生日なんだけれども、今朝神谷さんの『うつわの歌』をおもむろに開いたところ、非常にこころを掴まれる一節に出会った。

ーーあなたの希望(のぞみ)と願望(ねがい)の深みに
彼岸(かなた)についての沈黙の知識がある。
雪の下で夢みる種のように
あなたの心は春を夢みている。
夢を信じなさい、
なぜなら夢の中にこそ
永遠への門が隠れているのだから。--

『うつわの歌』の中で神谷さんがレバノン生まれの詩人ハリール・ジブラーンの詩集『預言者』の詩を翻訳・紹介されていて、この一説はそのジブラーンの詩の一節である。

この詩のタイトルは「死について」だった。
誕生日に「死について」という詩に
出会うことの意味が自分の心に深く響いた。
この詩にはこうも書かれている。

ーーもしほんとうに死の心を見たいと思うなら
生命(いのち)そのものに向かって広く心を開きなさい。
なぜなら川と海とが一つのものであるように
生と死は一つのものなのだから。ーー

誕生ということに、これまでにない心で向き合うよう
囁かれたような、忘れがたい誕生日になった。

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