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役立つ文章を書くという、破滅的言い聞かせ

仕事として文章を書く人が増えた。それは物書きが増えたというよりも、言葉をお金に変えられる媒体が増えたのだと思う。

仕事のノウハウや役立つ道具の情報、暮らし方生き方のヒント、稀有な体験記、料理のレシピや美味しいお店、いろんな言葉が行き交って2020冬。

自分も言葉を書くのが好きで10年ちょっと前まではブログを書いていた。書くのが当然だというように書いていた。けれど文章が世の中に氾濫するにつれ、だんだんと書けなくなった。最近は全く書けなくなっていた。

それはなぜか、よくわからなかったけど、なんとなく一つ思い当たったのは、役に立つことを書こうと意識するようになったからだということだ。

書くからには何かしら人に役に立つことを書かないと、読んでもらえない。読んでもらえないというか、そこが意識できていない文章では、ポツンと孤独な自分の姿が透けて見えてしまうのではないだろうか。そんなよくわからない不安が湧き、文章に向かう心に水を差していたように思う。もちろん書くという時間を使うのなら仕事として有益な作業にしたいという気持ちも影響していたけれど。

「役に立つ」。よくよく考えてみれば、この思考は文章にとっての「バルス」。そこには文章にとってのほぼ滅びといっても差し支えのないものが潜んでいる。

文章とは、本来何かの「役」を担うものではない。一つの機能として還元させられるようなものではない。いや、そういう場合もあるのかも知れないが、それは文章が縦横無尽に本来の力を発揮している状態ではない。

文章が何かの役に立つため、何かに奉仕するためだけに存在している状態。例えるならばなんだろう、市川正親さんが総理大臣になってしまったばっかりに官僚の書いた原稿ばかりを読んでいるような状態といえばいいだろうか。

実務的には優れた言葉なのだろう。美声や発声の強さで原稿の説得力も大いにあり、聞いている人も納得するものなのかも知れない。けれど、彼が自在に歌い語っている状態を考えたら、そのような状態は命のほとんどをしまい込んでいる状態に近い。

誰が話しても同じような、どこかで読んだような言葉に付き合わされるということは読み手も可哀想だけど、書いている自分にとって何より残酷であり悲劇である。

言葉は「連れて行ってくれる」とこが素敵なのだ。連れて行ってくれる、そう、魅力的なあの人がふと思いも寄らない店に連れてってくれるように、自分を、心を、思想を掬い上げて思いも寄らないところに連れ出してくれる。

書いているうちに自分は予想だにしなかった言葉と出会い、表現を選び、意外な人物を描写し、見たことのない景色に浸る。けれど、それはどこか自分がずっと心に秘めていたような世界でもあり、間違いなく自分自身だと言える熱を帯びてもいる。

これを「役に立つ」という考え方で書いてしまうということは、初めから行き先を固定してしまうということ。魅力的なあの人から誘いを受けることすらない。自分の頭だけで決めた行き先は予定通りだけれど、寂しい。

本当の文章とは書き手自身こそを驚かすものだ。

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