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「牧歌的恋愛」(英単語一つで人生の本質が学べる! 92)


Today's English

pastoral 牧歌的

romance 恋愛

a pastoral romance 牧歌的恋愛

"Love on the Farm" (「農場の恋」) by D.H.Lawrence


Introduction

最近は本を読む時間がなく、文学に触れる時間が一気に減りました。そこで、時間がないなか何とか文学に触れることはできないかと思索した結果、「詩」が良いなと思ったのです。本の1ページでも完結させられる詩は、時間がない筆者にとっては非常に相性が良いです。「詩」を研究するとなれば莫大な時間を要するのでしょうが、今回は単純に楽しむためにイギリスの詩人D.H.ロレンスの「農場の恋」に目を向けてみました。と言うのも、ネットで詩を拝見していたら偶然目に止まったからです。今回は、この詩を読んで感じたことを記事にしています。


Content

文学を対象とした批評や論文を嗜んでいると、よく「牧歌的」という言葉を目にする。

この言葉は、古代ギリシャの詩人であるテオクリトスが創造したもので、彼が故郷シチリアの田園風景の中で生活する牧人たちを描いた「牧歌」に由来している。田舎に住む牧人たちは、家畜の世話をしながら鼻歌を歌ったり、時には私生活の喜怒哀楽を歌にしたりしながら日々を送っており、テオクリストスはこのような情景を拾い上げ、また自身で創造し、歌へと昇華させたのである。

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そしてこの「牧歌」には恋愛的ニュアンスが含まれていることが多い。歌の中には恋で得た喜びや悲しみ、また報われぬ恋の嘆きなどがよく含まれており、「牧歌」は「自然」と「恋愛」と深い繋がりを意識している。

しかしながら、その恋愛は大都会の大人たちによるギスギスして殺伐として、合理的な恋愛ではない。純粋無垢な子供たちが経験する淡い青春のような恋愛であり、都会に染まった大人たちが見れば目を背けたくなるような純粋な恋愛である。

まるで蝶が舞いながら別の蝶と交流している様子や、巣で雄のツバメを待つ雌の様子、水遊びをする雀のツガイの様子ように、そこには一欠片の貪欲さもない風景が映し出される。

今や現代社会で上で述べたようなピュアな恋愛は難しいだろう。相手を選ぶ際に純粋な気持ちではなく、金銭面、地位、ルックス、周りの評価など、数々の項目を頭の中で総合時に評価し、また、ステータス化して相手を見てしまう。薄汚れた目で、貪欲な眼で、相手の内面を見る前に、あたかも相手を理解しているかのように評価してしまうのである。

このような中では、「牧歌的恋愛」を行うのは非常に難しいだろう。今や自然は奪われ続け、人間の心は徐々に廃れつつある。忙しい日々に追われ、自分と向き合うこともなく一日が終わる。人を好きになる時間なんてものはあるのだろうか。


しかし、「牧歌的恋愛」は本当に存在するのか、という疑問も持たねばならないだろう。単に理想論の可能性もなくはない。

牧草を食するあのウサギは、実は生きるために必死で貪欲さに塗れているかもしれないのだ。我々から見る自然はリラックスできる場所であろうが、そこで生活しているウサギからすれば命懸けのサバイバルかもしれないのだ。同じ人間においても、一般人からすればウサギは可愛い小動物かもしれないが、農夫からすれば自分の畑を腐らす害獣である。このように立場や視点で物事は逆転してしまう。

「隣の芝生はあおい」と言うように、第三者の視点から見れば悠々自適な生活を送っているように見えても、当人からすれば地獄のような生活を送っていることなんて数多くある。

とりわけ恋愛は第三者が介入しにくいジャンルでもある。仲睦まじくしているカップルの間に入ろうものならば、邪険に扱われることは少なくないだろう。つまり、人の恋愛について語るときは、真実は隠れやすいのだ。

さらには、恋愛は「闘争の場」でもある。ライバルを蹴落とし、時には汚い手を使い、意中の子を勝ち取る。例え世界一愛していても結ばれるなんてことはなく、よく分からない人物と結ばれてしまう、といったこともあるだろう。

そうであるならば、「牧歌的恋愛」は空想論である可能性は十分ある。

だが目指すべき道でもある。「自然」と「恋愛」は非常に相性が良い。

恋愛は自然のようなものなのだ。


Review

pastoral 牧歌的

romance 恋愛

a pastoral romance 牧歌的恋愛

"Love on the Farm" (「農場の恋」) by D.H.Lawrence



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