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今日は真珠湾攻撃の日 で、なぜ日本はアメリカと戦争をしたの?

早いものでもう12月。
12月といえば師走、クリスマス、決算、息子の誕生日、など色々なキーワードが浮かびますが、歴史的重要性から言ったら1941年12月8日の“日米開戦(真珠湾攻撃)”がトップなのでしょう。
もっとも昔はこの時期にはよく記念番組とか、トラトラトラのような映画とかやっていたものですが、最近はすっかり見なくなりました。まさに昭和は遠くなりにけり。

そんな訳で日米戦争についてはそもそもなぜ開戦に至ったのか、という事情(特に日本側の)がだんだん忘れ去られる傾向があるようで、あまりにも無謀な戦いだったことから、もしかすると今の若い人たちは当時の軍人や政治家が単にバカだったから、とか、アジア征服の妄想に取りつかれてとか、ファシズムに入れあげた結果、自業自得で民主主義を奉じるアメリカと戦争になったなどと思っている人もいるかもしれません。

確かに後世から見れば日米開戦が正常な判断でないことは事実ですが、それでも流石に当時の人たちを、後世の後知恵で狂人のようにいうのもフェアでないというものです。
私が生まれた頃は、まだ終戦から20年余りしか経っていませんでしたので、周囲の大人は皆戦争経験者で、今よりもずっときちんとした議論がなされていました。
ということでせっかく12月なのでそのへんの事情を少々。


昭和天皇が語った戦争の原因

さて当時に限らず日本で一番偉い人といえば天皇。
其の天皇(昭和天皇)は後の開戦の原因についてこう言っています。

「この(戦争の)原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに十分なものである。又青島還付を強いられたこと亦然りである。かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑へることは容易な業ではない」
問題の重点は油であった。及川の戦争回避案は、内地で人造石油を造るにある。其の為に200万トンの石油鉄が入用で、之は陸海軍から提供せねばならぬ、又非常に多くの工場を使用せねばならぬ関係上、内地の産業は殆ど停止の危態に陥ることとなる、之では日本は戦わずして亡びる。(実際日本の人造石油の生産能力は年間20万トンほどしかなく資源問題の解決にはならなったのです)

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実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追込んだものである。かくなつた以上は、万一の僥倖に期しても、戦った方が良いといふ考が決定的になったのは自然の勢と云はねばならぬ

第一の人種差別問題は、実はとても大きな問題なのですが、ここでは抜きにして、次の石油の問題について見てみましょう。一貫して開戦に反対し、科学者として合理的な考え方を持っていた昭和天皇をして自然の勢(当然の成り行き)とまでいわしめたのは一体どんな理由だったのでしょうか?

実は日本は石油の76%をアメリカに依存していた!

昭和15年時点で日本が消費していた石油の量は約600万キロリットルでした。
なにせ今も昔も日本は石油に乏しい国、当然当時もその92%を輸入に頼っている状況だったのです。
問題はそれをどこから輸入していたかということ。
今なら中東ということになるのですが、当時は中東の油田は開発されておらず、なんと全体の76%が戦争の相手国、アメリカからのものだったというのです。
それだけではありません。
近代産業に欠かせない鉄鉱石も87%が輸入に頼っており、うち70%がアメリカ、10%弱がイギリス(インド)からの輸入でした。
又工場でモノを造る為の工作機械の多くも輸入品で、ドイツをのぞけば大半がアメリカ製でした。 
つまり当時の日本は現代では想像もできないほどアメリカに依存していたのです。

現代の日本はアメリカの妾だとか属国だとか、或はアメリカが風邪をひけば日本は肺炎になる、なんていわれますが、当時と比べればまだましというもの。
ともかく戦前の日本はアメリカと仲違いすれば一日たりともやっていかれない状態だったのです。
当然そのような状況で日本が取るべき道はアメリカとの平和以外あるはずがありません。
事実ある一時期まで日本と米国の関係は極めて良好で、歴代内閣はアメリカとの関係維持に腐心していたのです。
普通に考えれば、どう考えても好き好んで日本が、少なくともこのタイミングでアメリカと戦わなければいけない理由など何一つありません。

勿論当時の政府首脳達、軍人達もそのことは痛いほどよく理解していました。
要するに客観的に見れば戦争を望む動機があったのは、日本の側ではなく、寧ろアメリカの側だった、という可能性が高いということなのです。

日本との戦争を望んだのはアメリカの方だった!?

では何故アメリカは日本との戦争を望んだのでしょうか?
その最大の理由として考えられえるのはドイツに攻められて苦境に陥っている同盟国のイギリスを助けるためです。
当時のアメリカは第一次世界大戦の反省からヨーロッパの戦争には関わりたくない、という反戦的な雰囲気が満ちていました。
しかも当時のルーズベルト大統領自身、若者を二度と戦地には送らない、と公約して大統領にでていますから、公約破りの宣戦布告は建前上難しいのです。

そこで中立と言いながら思いっきりイギリス(後にはソ連にも)援助をしまくり、ここぞとばかりにドイツを挑発したのですが、ドイツの方も第一次世界大戦でアメリカの商船を撃沈したことがアメリカの参戦につながった教訓(ルシタニア号事件)がありますから、簡単には同じ手には乗りませんでした。Uボートによるカーニー号事件やリューベン号といった事件はあったものの、開戦直前の12月7日のギャラップの世論調査では、ドイツに宣戦布告すべきという意見はわずか2.5%しかなかったのです。

そんな中参戦への口実として選ばれたのが、ドイツと同盟を結んでいる日本だったというのは十分考えられることです。
日本が最初の一発を放ってさえくれれば、正々堂々戦争に介入できる。
これがルーズベルト大統領の目論見だったと考えてもそれほど不思議はありません。

実際のところ1939年7月にアメリカが日米通商修好条約の破棄して以来日米の関係は急速に悪化しつつありました。
当時アメリカは蒋介石政府に莫大な援助をする一方、日本の侵略行為に対して強力な経済制裁を行っていましたが、第二次世界大戦が始まると更にこの制裁を強化し、日本を締め上げようとしたのです。

1941年6月、アメリカは日本が輸入の67%をアメリカに頼っていた工作機械について全面的な対日禁輸を申し渡しました。
更に9月には鉄スクラップを全面輸出禁止とし、日本がほぼ全量を輸入に頼っていた航空用燃料についても、輸出禁止という厳しい処置を追加したのです。
この為鉄鋼の生産量は1940年の551万トンから一気に100万トン以上も減少し、いち早く世界恐慌から抜け出て行動成長への入口に立っていた日本の近代産業は大きなダメージを余儀なくされたのでした。

これだけでも通常なら戦争モノだと思いますが、それでも日本はなかなか挑発に乗って来ません。
そこで1941年7月、アメリカはすべての日本の在米資産を凍結、8月には遂に石油の全面禁輸に踏み切ったのです。
これは石油の大半を米国に依存していた日本にとって事実上の宣戦布告に等しい行為でした。

それだけではありません。
当時アメリカは中国支援のため129機ものP40戦闘機隊フライングタイガースを義勇兵という名の元に派遣していましたが、遂にルーズベルト大統領はフライングタイガースによる日本本土爆撃計画にもサインするに至ります。
日本が戦争に訴えてこなければ日本本土を直接攻撃してでも日本を戦争に引きづり出すつもりだったのです。

日本には必要量の半分しか石油はなかった

ともあれ、日本は石油の大半を手に入れる道を失いました。
当時の国内の石油生産量は45万キロリットルあまり、これでは需要の一割にもなりません。
これを補う手段としてソ連からの輸入10万キロリットル、備蓄の取り崩し105万キロリットルに加え、質が悪く高価な人造石油70万キロリットルを生成することが計画されましたが、それでも必要とされる600万キロリットルの半分にもならず、年間370万キロリットルあまり不足すると予測されました。
このままでは数年のうちに日本が破滅する事は明らかです。

そこで第二のプランが計画されました。
連合国に宣戦布告し、オランダ領インドネシア(当時オランダ政府はイギリスに亡命していた)や英領の南方植民地を占領してそこから石油を供給するというプランてす。
推定では日本に輸送可能なインドネシアの石油の供給量はざっと250万キロリットル、残り120万キロリットルです。
これなら備蓄の取り崩しや人造石油の増産でなんとかなるかもしれません。実際にインドネシアから供給された石油は予想を上回る年間400万キロリットルだったそうです。
これは結論から見れば不足分をほぼカバーしていることになり、石油危機の対応だけを考えれば正しい対処策だったことになります。

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というより残された解決策はこれしかなかった、と言えるかもしれません。
たとえそれが破滅的な戦争に至る道だとわかっていたとしても・・・。
まあ、そもそもこれほど石油がないのに、逆に石油を使いまくる戦争を始めるというのは正常な判断でないのも事実ですしね。

それでも・・・もしアメリカの要求をすべて受け入れ、大陸からも撤兵し、権益や領土も放棄したなら
アメリカは石油の禁輸を解き、戦争は回避できたのでは? 

後から考えればそういう選択もあったのかもしれません。
しかしアメリカの研究所のシミュレーションでは、このとき日本がどんな譲歩をしようとも、どのみち翌年には戦争になっていた、という結論だったそうです。
後にアメリカのフーバー元大統領は後にマッカーサー元帥との会談で、日本との戦争は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』の願望だった」とルーズベルト大統領を激しく非難し、在米日本資産の凍結や石油の禁輸など41年7月の経済制裁は「対独戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込もうとしたものだ」と語ったそうです。
つまり相手が戦う気満々である以上、この時点でもう日本は”詰んでいた”のです。

昭和天皇は開戦当時の首相であった東條首相については決して悪く思っていませんでしたが、外交政策を誤りアメリカとの対立を招いた松岡外相だけは生涯許す事はありませんでした。
科学者でもあった天皇は、戦いは実際には始まる前にほとんど勝敗がついていることをよくわかっていたのかもしれません。

とはいえ戦争の起こる理由というのは一つではなく、また政治的には様々な立場ばあります。
また如何なる理由があったとしても、戦争の惨禍を道徳的に正当化することもできません。
ここで取り上げたことも、そのうちの一つの側面にすぎないことです。

それでも、日本はいったいなぜアメリカと戦争をしたのか?
ついこの前の自国の歴史なのに、明確にこの問いに答えられなくなった現代の日本人は、ある意味平和を謳歌した幸福な国民なのかもしれませんね。