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カーディガンもラグランスリーブも、バラクラヴァ帽も、みんな1854年の今日が起源だったりする

なんかよくわからない言葉がずっと頭に残ってるっていうのありませんか?
私の場合、「バラクラヴァの竜騎兵の突撃」というのがそれで、一体どこでその言葉を仕入れたのか全く覚えていないのですが、大学生くらいになって初めて、クリミア戦争の戦いの名前だと知りました。

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今から思うと、元々は子供の頃に戦争映画の傑作「進め、竜騎兵」を見たからような気もしますが、本当のところはやはり竜騎兵(ドラグーン)という響きがカッコ良かっただけの気もします。
実は今日、つまり10月25日は1854年の今日、そのバラクラヴァの竜騎兵(竜騎兵とは銃を装備した騎兵のこと)の突撃が行われた日なのです。

よくわからない成り行きで始まったクリミア戦争

さて、そのバラクラヴァの戦いが行われたクリミア戦争なのですが、これがまた訳の分からない戦争で、そもそものことの始まりはクリミア半島とは縁もゆかりもない中東のエルサレムを巡る争いに端を発したものでした。

エルサレムはユダヤ教、カトリック・プロテスタント、ギリシア正教、イスラム教の共通の聖地なのですが、この頃はオスマントルコ帝国の領土になっていました。
ところが1535年にオスマントルコ帝国がフランスと対オーストリア同盟を結んだとき、その見返りにとフランスに対して一時的に聖地のキリスト教徒守るための治外法権を与えたことがあったのです。

ところがトルコが衰えてくると、それに乗じたロシアがこの昔話を蒸し返し、ギリシア正教徒を守るために、俺にもフランスが昔持っていたこの権利(聖地管理権)をよこせと言ってきたのです。
トルコは仕方なくロシアに聖地管理権を与えたものの、今度はフランスのナポレオン3世が人気取りのため、対して実効性もなかったこの聖地管理権問題をさも大事であるように取り上げ、横車を押してロシアから取り返しました。

こうなると収まらないのがロシアの方。
ならばと要求をエスカレートさせ、オスマン帝国全土のギリシア正教徒を保護する権利と義務がロシアにはあるとかなんとか言って、モルダビアに軍を進駐させたのです。

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やがてこれがバルカン半島を巡る両軍の小競り合いに発展。
しかも当時バルカン半島の独立運動を支援していたイギリスやフランスも成り行き上戦争に巻き込まれ、1854年9月あれよこれよと言ううちに大規模な遠征軍がロシア黒海艦隊の本拠地であるクリミア半島のセバストポリ攻略のために送られることになったのでした。

シンレッドライン

さてセバストポリ前面の10キロほどの街バラクラヴァまで進撃したイギリス・フランス・トルコの連合軍でしたが、ここでロシアが反撃に出ます。まずロシア軍騎兵3500人がイギリス第96ハイランド連隊の陣地を強襲しました。
陣地を守る人数は僅かに600名です。
しかし6分の1の兵力にもかかわらず、赤い煌びやかな軍服に身を包んだハイランド連隊は、凄まじく正確な射撃でこの突撃を喰い止め、なんと撃退してしまいます。
こうして大いに勇名をはせた彼らは「シンレッドライン(薄い赤い線)」の渾名で呼ばれることになりました。

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陣地の突破に失敗したロシア軍は今度は目標をスカーレット准将のイギリス重騎兵連隊500人に移します。
しかし、少数の兵力ながら戦意旺盛なイギリス重騎兵連隊は、なんと6倍のロシア軍に対し逆に突撃を敢行。これを蹴散らして壊滅させてしまいます。
これを「重騎兵の突撃」と言いますが、実は有名な竜騎兵の突撃はこの戦いではありません。まだこの先があるのです。

騎兵突撃最強時代の終焉

この時点でイギリス軍はロシア騎兵の攻撃を跳ね返しはしたものの、前線をなんとか維持していたにすぎませんでした。
事実歩兵同士の戦いでは虎の子の砲兵陣地をロシア軍に奪われていたのです。
そこで2つの勝利に勇気付けられたのか、イギリス軍の総指揮官ラグラン男爵は、軽騎兵師団の指揮官カーディガン伯爵に大砲を奪い返すため、第五竜騎兵旅団600人に砲兵陣地へ突撃するよう命じました。
しかしここで痛恨のミスが起こります。
伝令の間違えで、奪われた目の前の陣地ではなく、なんと遥か後方のロシア軍主力砲兵陣地への突撃が開始されてしまったのです。

当然第五騎兵旅団は圧倒的多数のロシア軍に四方から総攻撃を受ける羽目になります。
しかし彼らはそれでも突撃を辞めませんでした。
なんと遂に敵陣に到達し、ロシア軍を大混乱に陥れたのです。

バラクラヴァの竜騎兵の突撃は、その勇敢さや敢闘精神が大いに讃えられ、英雄視されたものの、とは言え失ったものもあまりに多過ぎました。
旅団の半数以上が戦死し、ほとんど全滅に近い損害を受けたのです。
こうしてこの戦い以後敵陣地への単独騎兵突撃は二度と行われなくなりました。
「バラクラヴァの竜騎兵の突撃」は騎兵突撃の最後の華であり、そしてその終焉の地となったのでした。

カーディガンもラグランスリーブもヴァラクラヴァから産まれた

さて実はこの戦いは、ロマン溢れる騎兵突撃終焉の地として知られるだけでなく、様々なファッションを生んだ場所としても知られているのです。

この戦いの後、カーディガン伯爵は負傷兵を見舞う為野戦病院を訪れました。
そこで厳しい寒さに苦しむ負傷兵をみて、傷に触れないようワザと着ていたセーターをナイフで切り裂き、かけてやったそうです。
私たちは前開きのできるセーターのことをカーディガンと言いますが、これはこの時のカーディガン伯爵に敬意を表し、そう呼ぶようになったのだそうです。

また、寒冷地とか、怖そうな特殊部隊とか、あるいはもっと怖そうなどっかのテロリストとか、ともかく目だけ出した帽子を見かけることがありますね。
これはバラクラヴァ帽と呼ぶのだそうですが、もちろんこの戦いに因んでのことです。
寒いロシアの戦場で寒さを凌ぎ凍傷にならないよう、ある兵士の家族が編んだニットの帽子がこのバラクラヴァの戦いで有名になり、後に広まったものなのだそうです。

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ファッションといえばもう一つ。
写真のようなラグランスリーブ(ラグラン袖)と言われるデザインがあります。
首回りから袖の下部分まで斜めに切り替え線が入ったデザインで、スポーツウェアやユニフォームなんかでもよく見ますね。
これは肩の付け根に切り替え線が無いため肩や腕が動かしやすいという特徴もあるのだそうです。

実は名前の通りこの服を考案したのは、バラクラヴァの戦いのイギリス軍総指揮官であるラグラン男爵こと、フィッツロイ・サマセット陸軍大将です。
ラグラン男爵はあの有名なウェリントン将軍に仕えた歴戦の軍人で、ナポレオン戦争の時はウェリントン将軍と共にスペインで戦い、ナポレオン最後の戦いであるワーテルローの戦いの時も最前線で指揮をとって、結果として負傷し、右手を失いました。
その為服を着やすく、負傷した腕が動かしやすいようにと作らせたのがラグランスリーブなのだそうです。

いかにも怪しいバラクラヴァ帽はともかく、カーディガンやラグランスリーブも皆んな戦場由来とはちょっと意外ですね。


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さて一つの戦いから様々な逸話を生んだバラクラヴァですが、冷戦中はソ連の巨大秘密潜水艦基地が置かれ、秘密を隠すために、街は単に825CTSという記号だけで呼ばれていたそうです。
現在ではこの秘密基地が公開され、その手のマニアで賑わう観光地になっています。