世界は宗教化するに決まってんじゃん。笑(中編)
上の記事の続きでございます。数日前に書いたものであるのにも関わらず、筆者がすでにぼんやりと忘れてしまっているので、少しおさらいすると
日本人は「宗教」という言葉にマイナスなイメージを抱きがちであるが、宗教の本質としてある「信じる」という行為は、人が勇気をもって行動するために必要なものである。
とかを言ったとかなんだとか。読んでみるともう少しあれこれ長く書いた気がしねーでもありませんが、まあコアはここであるのでこの部分だけ理解してもらえればよいです。
そういえば、「信じる」と調べれば「信じるには勇気が必要だ」みたいなブログが出てくるのですが、これが前回の記事を読んで全く当たり前のことだと理解できれば、復習する必要はありません。
「信じれば勇気をもって行動できる」ってのと、「信じるには勇気が必要だ」というのは相反するようでしていないもんです。というより、それぞれ勇気の意味合いが変わっているといった方が正しく、前者は「これから起きる変化のありのままを受け止める気持ち」、後者は「ある程度の論理的でない部分について妥協する気持ち」というものとして考えています。妥協というより、認めるといった方が近いかもしれません。
前回では、「信じること」がそもそも非論理的であるというのを説明したので、「信じるには勇気が必要だ」というのは、つまり「非論理的であるものを認めるには、論理的でない部分について認める気持ちが必要だ」ということになるのでどこかトートロジーのような匂いを感じるのですが、そういうもんです。
自分の中で言葉をある程度丁寧に定義づけしていけば、とある命題が実はトートロジーだった(今でいう小泉進次郎構文)ということに遭遇します。
自分を悩ませたものほど、丁寧に言葉を見ていったら実際は「しょうもなかったこと」に落ち着くのはよくあることなので、「この言葉はどのような含みを持っているだろうか」と推察することが大切ですよ。
話がずれていくのが見えていますので、引き戻します。
宗教は思っているほど悪いものではないという主張で、この話は続いているのですが、まずは大衆について語らなければなりません。
辞書であるような、社会を占める多数の一般的な人々という意味はもちろんありますが、それ以上にここで話す大衆は、
他者志向型である
という特徴を持っています。これは、社会学者リースマンによって唱えられたもので、周囲の人間の行動を規範にしていくことが主な特徴です。
みんな〇〇をしているから、〇〇をする。
インスタ映えしている店ばかりに行ったり、食べログの評価を絶対だと信仰する人に見られるものです。
近くにそこそこ良さそうな飲食店が見えるのにも関わらず、食べログの評価を信じてしまったばかりに、わざわざ長距離移動してあまり味も変わらないような飲食店に行くような状態を指します。
インスタとか食べログを使っていることが悪いとか批判をしたいわけではありません。僕も行ったことのない場所でなるべく急いでご飯を食べたいと思う時には食べログをフルに活用させてもらっていますし。
ただ、「みんなやっている」ということを動機に自分の行動を同調することができ、それが正しい道であることを信じて疑わない人が一定数いるということを言っています。
「一定数いる」などというと、「あー、そういう没個性的な人いるよねー」みたいな勘違い野郎が出てくるかもしれないので加えていうならば、他者志向型のような意識は誰しもが多かれ少なかれ持ちます。
例えば、「僕(私)はスーツって、個性がないから嫌いなんだよね」という話などは、就活が活発になる直前に時々見られる光景ですが、これも他者を見ながら自分の意見を持つわけですから、ある種他者志向的な態度であると言えるでしょう。
つまり「大多数にウケるような音楽ってカッコ悪いよね」というような態度で、マイノリティを好む仕草も同じ穴のムジナであるということですね。これ以上この話をしたら、死者が出そうなのでやめておきますが。
ここで大事なのは、「他者の行動や規則を(無根拠でありながらも)正しいと捉える」という性格があり、それを誰しもある程度は持っていることです。
過去にハンナ・アーレントは、元ナチス親衛隊であるアイヒマンが「命令を実行しただけだ」と彼自身に罪の意識がない状態を著書の中で述べていましたが、それも他者志向型としての性格が生んだものであることは確かでしょう。
しかし、これが悪いことだと非難するつもりはさらさらありません。
人間とはそういうものだし、そうでなければ生きていくのは難しい
と思うのです。
例えば、進路を決めるにあたり私たちのほとんどは就職もしくは進学という選択をしますが、その他の選択肢を持っている人はほとんどいないでしょう。
それらの選択をあらゆる側面から悩み抜いて決めた人がいる一方で、「なんとなく就職」という気持ちで決めた人も少なからずいます。
なぜなら、この日本においては大学は現役合格し、新卒ですぐに就職をした方が賢い選択であるという風潮があり、将来のことをそれほど考えなくてもとりあえずそういった選択をすれば悪いようにはなりづらいと思えるからです。
もちろん、これが本当によい選択であるかを決めることはできません。例の病気によって、内定を取り消された学生もいるし、30〜40代のローンを抱えたお父さん世代がリストラにあうこともあるでしょう。
しかし、進路を選択する際にそのようなリスクをいちいち考えていたのなら、なかなか行動することはできません。
就活の際に「外出が不可になることもあるだろうから、出来れば家の中でも働けるような、、、いや、でも最終的には食べていければいいのだから農家とか、、、、」なんてことを考えていたら、何もできずに寿命ですぐぽっくりと逝ってしまいます。笑
「これこそがよい選択肢なんだ!」と意識的であれ無意識的であれ信じることがなければ、行動にはすぐ移せないんです。
そんな中で、新卒からの就職がよい選択肢であるという風潮が世間では流れている。
つまり、信じやすいものがすぐ近くにあるということなのです。
「その日のランチをより充実したものにする」ために、様々な店を見て周りあれこれ悩んでいたらディナーの時間になってしまう。
そこで無駄に悩まないためにも、食べログの評価を頼りにするのです。
なぜなら、その評価を信じるに値するような他者の存在が色濃いものが食べログだから。圧倒的に世間を表しているのです。(お金払って評価上げている店が叩かれるのはそこに世間が表れていないからかもしれませんね。)
ここでもし、食べログ以外に「グルメ雑誌」や「インスタ」など様々なものが食べログと同じくらい私たちに世間を表しているものだと見えたらどうでしょう。
きっと、悩む時間は増えると思います。
進路において
「やはり新卒を利用して就職すべきだよね」
「学部卒の人間なんて知識が足りていないのだから院進すべきだ」
「起業で多くのことを学んだ方が良い」
というような意見が同じくらい言われていてその力が拮抗している時、今よりも多くの時間悩んでしまうでしょう。
つまり、私たちが気軽に行動する際には、選びたいものが他の選択肢と比べても圧倒的に信じられなければいけません。
ここで宗教の話に入ります。
世界でもメジャーな宗教がそうであるかはわかりませんが、カルト宗教やそのように揶揄されるようなオンラインサロンというのはリーダーのカリスマによって維持されています。
以前、中田敦彦氏の歴史解説動画で事実誤認が発覚した際、彼のファンらは「多少の内容の間違いは容認(というより目をつぶる)するべきだ」と擁護しましたが、それも彼のカリスマによるものでしょう。
彼という人間を信じることで、事実誤認が起こっても(とは言っても事実誤認は確からしいので)なんら問題はないというような態度をファンらは持ち始めました。
つまり、事実であるかどうかよりもそれを信じれるかどうかが彼らにとって重要であるということです。
現在、コロナに関する様々な情報が錯綜しており、知識を持たない一般市民にとってはそのどれもが正しいように見えてしまうため(それでも情報同士を比較した際に対立してしまうため)、何をすればいいのかよくわからなくなります。
市民は多くの情報を与えられると、それらを上手に処理することが難しいため、結局世間の雰囲気に合わせてしまいます。
「まあ、みんなお花見やってるからいいでしょ」「帰省先の方が安心だから移動しよう」みたいなのも世間がそのような動きをしているから合わせているに過ぎません。まさにカオスな状況です。
一方、宗教的な集団はそのような事態があっても、リーダーが命令をすれば下の人たちはいろいろな情報を無視して、リーダーの命令を信じるようになります。
わざわざわかりようのない情報に惑わされることもなく、それを信じて行動ができるのです。
そして、その情報がある程度正しいものであった時、彼らは自然と正しい選択肢を選べます。
特に現在は、あらゆる人々から真偽不明な情報が多く発信されるものですから、それらに悩まされずに行動に移せるのは宗教的集団が持つ強みであると言えましょう。
もちろん、これらの集団は危ない行動をする可能性も大いにあるので、リーダーが賢人であることは前提としております。
次回は、それらを踏まえて自分の人生で「信じる」を役立てる方法について話していこうと思います。
本買ったり、コーヒー飲んだりに使います。 あとワイシャツ買ったり