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『劇場版少女歌劇レヴュースタァライト』感想─演出と物語の乖離がもたらす空虚さ

 『劇場版少女歌劇レヴュースタァライト』を鑑賞したことは、おそるべき体験だった。
 見ていて、「ああいいな」と思うようなカットはそれなりにあった。それも今までのセルアニメの流れを組む作品ではなかなか見たことがないような映像表現がたくさんあった。

 しかし見終わったあと、私はぐったりとした気分で劇場を出た。虚脱感というか、意気消沈というか。なんの感情も持てないまま、いらだちに似たなにかが体に充満していた。それは次第に空虚さに変わって無常な切なさになった。人の多い池袋でなかったらそのまま涙を流していたかもしれない。

 作品についてまず子供っぽい比喩で語るとすれば、きらびやかなおもちゃ箱のなかになにもなかったような感じだろうか。いや、おもちゃ箱のなかががらんどうなことは見ている最中からわかっていた、でも、でもここにはなにかあるんじゃないかという、期待を膨らませる手品というか仕掛けがあるから、私はそこに何かがあるような錯覚を何度もしてしまった。でもやはりそこに素晴らしい神秘はないのだった。

 わかりづらい例えばかりで申し訳ないが、この作品のどこに私が苦しんだのかは、とても繊細な話なので、遠回りせざるをえない。少なくとも私が言いたいのは「演出」についてだ。しかも演出の良し悪しではなく、「演出の存在」についてだ。今回は見てない人にも伝わるように頑張って書きます。


基本の作品設定

 『少女歌劇レヴュースタァライト』は舞台芸術を学ぶ専門高校の俳優学科に通う少女たちを描いた作品である。
 しかしその中でもきらめきを持つものは、異空間の舞台(ととるべきか)で行われる「レヴュー」に参加することになる。それは剣戟と演劇の合体のようなもので、展開に合わせて舞台は変化し、最終的に上掛けのボタンを落とされた方が負けになる。
 そして数日間の「レヴュー」を終えて一位になった者はスタァとして「どんな舞台にでも立てる(時空間すら歪めてOK)権利」を得られる。また、そこでの勝敗が学校で行われる演劇の主役争奪にも関わるようだ。


 というのがテレビ版の基本的なシナリオ。TV版はレヴューを経て二年生の集大成としての劇を終えるところまでが描かれた。劇場版は三年生の5月からが描かれるが、後述。

TV版の問題点


 私はそもそもこのTV版を面白いと思わなかった。最大の理由は登場人物に課題がないことだった。
 主人公の愛城華恋は5歳のときに幼なじみの神楽ひかりと「一緒にスタァになる」という約束をして別れた。ということ以外に華恋と舞台をつなぐものはない。
 1話の時点で華恋は学校の中ではそこまで優れた成績ではないが、そこに特に理由はなく、神楽ひかりが転入してきて、「一緒にスタァになる」という約束を再認識したことであれよあれよと強くなる。
 ほかの登場人物も同様で、「舞台にあこがれてスタァになりたい」か、「○○ちゃんと一緒に活躍したい」という端的すぎる動機しかないのだ。キャラ付けはしっかりされているが、物語構造の上の存在者としては全員没個性と言える。
 ただ一人大場ななという人物だけ異常で、「2年生の日常と舞台芸術を永遠に繰り返したい」という目的をもって実際にレビュー勝者の権利を使って世界をループさせまくっていたのだが、主人公やその他の人物とはあんまり関係がなく、あくまで大場なな個人の問題として処理される。


 そしてレヴューについて。雑に言えば『少女革命ウテナ』の戦闘シーンをより演劇調にしたうえで『魔法少女まどか☆マギカ』の戦闘シーンの要素も入れてさらに作画枚数をふやした、と言えるようなリッチな映像なのだが、それがなにを意味するのかというと単に「舞台スターになりたい少女たちの役争い」だ。
 レヴューはオーディションとも呼称されるが、要はただのオーディションの意味なのだ。TV版の終盤で、オーディション勝者の権利を拒否した神楽ひかりが罪人になるという展開があるため、不思議パワーがなんの意味も持たないわけではないが、そこに言外の意味とか黙示されるテーマとかはない。

 つまり骨子を抜き出してしまうと「スターになりたい没個性的な少女たちがスターになろうと努力とバトルをして、没個性的なままスターになる」物語だった。
 そういう単純な物語もわるくはないはずだが、華恋がした5歳のときの一緒にスターになろうという約束は運命と呼ばれ、詳細が明かされないまま「運命が~」という風に仰々しく語られるから、もっと深い根源的な宿命があるのかと思いながら見ていたら、本当に5歳のときなんの不思議もなく約束しただけの話だったので落胆した。そういう思わせぶりさが各所で物語の薄さを強調した。


 また、群像劇的な要素がだいぶ薄いのも特徴だ。9人いる主要登場人物は基本的に2人ペアで、百合関係の模範カップリングという感じにその2人間の関係性ばかりクローズアップされる。だから痴話げんかする以上の発展性がない(露崎まひるというキャラだけ主人公に実質フラれてしまい嫉妬の炎を燃やすという展開はあるし、僕はそこだけとても好き)。


 ということで結果として「物語的な起伏」や「深い情念や感情のいりまじった百合関係」のない、だいぶあっさりした作品として仕上がった印象だ。まああっさりした百合関係が好きな人もいるから悪ではないけど。
 また、作画コストがやたらとかかっていることや、演技の作画力が高いこと、よくできた歌が沢山あるから、楽しめる人には楽しめる作品にはなっている、ということだろう。物語の薄味さは自分にとって全く好みではなかったが、まあ普通に見てはいられた。


極論すると全く同じ劇場版

 長々とTV版の話をしたのは、劇場版もだいたい同じ構造だからだ。いろいろな進歩や違いはあるが劇場版も物語は薄い。
 シナリオの骨子を説明すると「卒業が迫ってそれぞれがビビったりするけどやっぱり頑張ろうと思う」という感じ。
 一行で書けばどんな物語もこんな感じになると思うが、重要なのが「卒業」がなにとも絡まないことだ。高校卒業というのは、健康的で文化的な生活を送れていれば誰にでもやってくるもので、18歳の誕生日と同じようなものだ。つまり「卒業」というものはほかのイベントと絡みあわなきゃただの定時イベントなのだ。
 そして実際絡まない。唐突に新たなレヴューは開催されるが、それも唐突感があるのと形式が異なるだけで前年と同じ、公演の前にあるべき当然のイベントなのだ。つまり本質的には定時イベントなのだ。双葉と香子という名前の特にペア感の強い二人が卒業後の進路がらみで喧嘩するくらいで、この作品は定時に予定されたイベントを粛々と実行するだけの物語なのだ。


 しかしこのシンプルすぎる物語をさらっと受け取れた人間はいないだろう。なぜなら画面はいつも、不可解で楽しげな演出が満ちていて、どう展開するのか?ということを追うことに脳のリソースを常に使うからだ。凝らされた表現主義的な演出はスクリーンを彩り続け、劇的な空間を作りつづけた。


いい演出が存在したが…


 この「演出」こそがこの作品の中枢と言ってもいい。物語がシンプルで俳優の演技を味わう映画や、人間よりも背景美術の方が目立つ映画と同じように、すべてを超えて演出がいちばん目立つ映画だった。

 まずここでいう「演出」を定義しておくと、絵コンテに基づいて画面構成と撮影と編集を行う工程の「演出的側面」のことを言う。要するに「どう映像を演出するか」という文に出てくる演出という概念だ。

 さて、本作が演出的な意味で、目立つ技巧が圧倒的に多い作品だったということは明白だ。『シン・エヴァンゲリオン』の後半の演出ラッシュも及ばないだろう。この映像特質を未見の方に説明することは不可能に近いだろうが、記憶の限り列挙しよう。


 実写を参考にしたと思しきリアルなトマトがはじける映像が序盤を印象付ける。また、アルチンボルドよろしく野菜の集合体で表現されたキリンが奇妙な質感をあたえる。3DCGの電車が変形して舞台に変化する様相はバカげたユーモアと緊張感を提示した。暴力の印象を強めた剣戟。TV版で見られた「オーディション」の自動舞台装置はさらに進化して血のりを吹く。駅を利用した演出。絵的なかっこよさのために次のカットではつながらないポーズになる”見得”の演出。MVのような演出をするデコトラ。書き割りの虚構性をより活かしたカット。いきなり死体になってしまう展開。TV版で印象づけられた0点ポジションを記号として使う演出。


 いろいろあったけど記憶に焼き付いたのはこんなところか。「舞台下手(しもて)」という名前のついた駅に降りた次のカットで右(上手)から左(下手)に走るカットが連続することでひかりが舞台袖から舞台に行かずに逃避していることを示すなど、映像の原則をうまく利用した演出もあった。

見ていて面白いな、とは思った。
だが、これらが意味するものはなにもないのだった。


演出と無意味な物語

 序盤に急遽はじまったレヴューで大場なながあっさりと華恋以外の全員を切り伏せる、めちゃくちゃ劇的でカッコイイシーンがある。だがそれが何を意味するのかというと、単にルール説明なのだ。TV版で大場ななが終わらない日常を求めてループしていたのは書いたが、別にそういう「構造」があるわけではない。 今回は上掛けのボタンをとるだけで終幕にならず、独自のきらめきを見せないと終わらないということをしめすだけの映像なのだ(それと大場ななの見せ場づくり)。

 そして大場ななはそれを知っている様子なので、そこでわざわざ斬ってやった理由が謎になる。みんなにわかりやすくルールを説明してあげた、という可能性は浮かぶ。じゃあなんであんな殺人鬼みたいな態度だったんだろう?
 それはさておき、みている間の感覚は「いままでの日常がすべて破壊されていきなり殺し合いがはじまった」というものだった。これが単なるルール説明でしかなかったとわかるのはすこし後だ。そもそも映画なのだから、最後の最後までなにがあるかわからない。しかし時間が経過するにつれて「ああ、あのいきなりすべてが崩壊したように見えたシーンはなんでもなかったんだ」という虚無に収束していく感覚はいかんともしがたかった。

 繰り返すがここは本当にすごくカッコよく劇的なシーンなのだ。大場ななの切り方は眠狂四郎もかくやという催眠的なゆらめきをもちながら、かつ重力の重みを感じるすさまじい作画。そして逆光を一コマ単位で処理した手間のかかった撮影処理。
 切られたみんな死体みたいになってしまい、血のりは本物の血と変わらない色で噴き出す。アニメであるがゆえに死体と死体っぽい演技、血なのかは血のりなのかは見た目ではわからないというメタ的なトリック。
 ……メタ性を宿した上での暴力の表現として、こんなに完璧な映像は初めて見た。


それがなんの意味ももたないのが『レヴュースタァライト』という作品なのだ。


並行して分離したレヴュー


 その後のレヴューシーンも同様だった。双葉と香子のレヴューは喜劇的で面白かったが、その争いの物語的な意味は、双葉が自分に進路の相談してくれなかったと言って香子が怒るという話だけなのだ。
 しかもそれは視聴者にとってほとんど初耳だ。レヴューがはじまるまでに、進路についての面談をするシーン(ほぼ全員ぶんで冗長に感じるくらいに長かった)や、寮でみんなで会話するシーンなんかもあったのに、そこではなんの不和や関係のぎくしゃくも示されなかった(私が鈍いだけでなにかしら”臭わせ”はあったのかもしれない)。だから、いきなり知らない、しかもしょうもない痴話げんかを見せられている感じだった。


 天童まことクロディーヌのレヴューは神的な役者になるため「からっぽの魂になった」というまことそれを否定するクロディーヌの戦い、ということなんでしょうか。TV版でも映画でも天童まこは「強い、プライド高そう!」以上の掘り下げがないのでだいぶ唐突というかそんな対立構造あったっけ?感が強かった。まあ他のメディアミックスで語られているのかもしれないし、演劇というテーマ的に合ってはいるため、こういうシーンがあることはわるくないと思う。それに今まで見られなかったキャラの一面が出てくれることはとても良いことだ。

 しかし、重要なことはこれらのキャラのレヴューは独立して並行な存在で、主人公とヒロインであるひかりにとってなんの関係もないということだ!


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 拙いながらも図示するとこういうことになる。レヴューがはじまって一度大場ななにボコされ、新たなレヴューがはじまるまでが全体パート。それ以降のレヴューは全く異なる空間で二人ずつ行われ、互いに影響しあうことがない(双葉香子パートでクロディーヌがモブみたいに登場するだけ)。

 そんなレヴューの幕間に主人公華恋は目的を持てずに謎の空間を放浪しているカットや回想シーンがいくつも挿入され、最終的にひかりと邂逅し、映画は華恋の物語として終わる。その華恋の物語に重要な役割を果たすのはまひるがひかりを攻撃するレヴューだけで、ほかのキャラのレヴューは表層的にも深層的にもつながりはない。一応、「みんながお互いに対して秘めていた思いをぶちあける」という統一性はあるが、”枠”を超えて関わることはほぼない。
 また回想シーンには表現主義的な演出はほとんどなく、一般的なアニメの技法で描かれるため、カットの印象としても他のレヴューとは断絶されている。

 これを「それぞれに役割があり、この作品ではみんなが主役である」という風に肯定的にとらえてもいいと思う。だが、それが本当になんの連関もないとなると、私には4本の独立した映像が無理矢理縦のタイムラインに並べられているように見えた。そして華恋以外は全部唐突な、とってつけた対立構造があるように見えるだけのものだった。華恋の物語については後述。


 徐々に失望しながら、これは物語的な意味を持たないまま劇的な空間を見せ続ける作品だったという認識をふかめていった。演出する先の物語や人物関係をもたないまま、「アニメのかっこいい演出」がたくさんながれる。


それは「『演出意図のない演出』で構成された映像」と呼べるだろうか。


「演出意図のない演出」は「映像美だけの映像」とは違う


 あらためて言っておきたいのは私は「中身(シナリオ)が薄い」ということではないということ。シナリオのない、映像的効果や映像美だけを抽出した映像があってもいい、というか個人的にはそういう作品は好きだ。
 『レヴュースタァライト』で感じた苦しいほどの虚脱感というのは、そういうことではなく演出意図がないのに意図を演出するための演出が盛られていることが、とてもグロテスクだったということだ。


 たとえば先ほど書いた大場ななが全員をなで斬るシーンの作画を取り出して、剣戟のアニメとして切り取って2分の短編アニメとしても成立して、楽しく見られそうな気がする。しかし前後のカットから文脈を発生させることで映画というものは成立してきたわけだ。
 単体で成立するような映像でも、それが不釣り合いに乖離した文脈(ただのルール説明)ならば、そのカットは死んでしまうのだ。

 さらに言うと、本作がかっこよさの演出のためだけに使ったナメやフカンやアオリの構図は人間の感情や関係性を伝えるために発展してきた技術だ。我々にはそうした文法を読み取る力があるのに、読み取ったさきになにもないというのはとてももどかしいというか気持ち悪い。


 また、キーワードを用いる見せ方もそうした乖離を助長している感があった。
 「列車は必ず次の駅へ──では舞台は?あなたは?」というキーワードがなんども提示される。それは愛城華恋の「ひかりと一緒にスタァになっちゃったから目的がない」という話と、舞台にビビったひかりとはまあ合致するものの、先述した並行して存在するほかのキャラとは関係がない(なにせみんなしっかり進路を決めて、目指す目標も明確なのだ)。そしてその大仰なキーワードから想起されるようなスケールの大きい物語は華恋にもないのだ。

 映像という複雑な芸術の中で「書かれた言葉」は力を持ちすぎてしまう。なぜなら映像とは記号による構成であるからだ。


アニメは構成主義なので…結論

 『レヴュースタァライト』の画面構成や美術にロシア構成主義美術の表面的な影響があるというTV版のときの感想ブログを読んだが、そもそも現在のカットをつないで見せるモンタージュ論にもとづく映画(=ほぼすべての映画)は構成主義の思想により産まれたものだ。


 構成主義…すなわち科学や工業の明快な構成の選択によって、合理的な現代芸術を築く社会主義にひっぱられた運動。ソ連のエイゼンシュテイン監督がその構成主義に基づいて現在の映画の見せ方を思いついたという話は有名だ。これより詳しい話とか書くとボロが出そうだからやめておくが、そもそも映画の演出というのは構成主義的な、意味性の組み合わせから発生している。

 ロシア生まれの構成主義はナチスや旧日本軍など敵対するはずの側にさえプロパガンダとして広く利用されたが(そもそも構成主義自体がプロパガンダ)、映像は今なお最高のプロパガンダとして利用され続けている。それは映像が意図を演出する(意味を伝える)上で最適だったということだし、なおかつ意図を伝えるという面で発達してきたのだ。

 そして日本のセルアニメというのは記号的な絵の組み合わせからなっており、実写以上にその構成主義的特性は強い。

 だから作り手はその気になれば台詞が無くてもカットと記号的な絵の表情だけで物語を表現することができる。そしてわれわれ視聴者はそうしたモンタージュされた物語を、シナリオとは別に読み取りながら作品世界の深みを味わえる。

 そういうアニメ映像の特性を考えてみれば、演出と、演出される対象であるはずの物語が乖離するということは骨格の構成の破綻であることは自明だ。つまり、「ちょっと味付けをやりすぎだ」というようなことではなく、台詞から伝わってくる「シナリオの物語」とカットの構成が伝える”意図の物語”とがちぐはぐで、二つ全く別の物語が同居しているような、異常な作品になってしまっているのだ(もちろん本作にそれをあえてやって見せるような巧みな思考はない)。


 そうなのだ、素晴らしい作画や、気持ちのいいカット、そして死や暴力を印象付ける演出から、私はもっと深淵な”意図の物語”をある一面で、味わってしまった。それは私の勝手な解釈ではなく、カットの構成のなかに実在した物語なのだ(と言わせてください)。
 だのに、この作品が実の物語として提示したものはほんとうにつつましい、こじんまりした物語だったのだ。
 映画において演出はどれだけ力をこめようと虚飾にすぎず、人物と物語が土台だ。カットから香ったもう一つの”物語”は、煙のように消えて、つまらない物語だけが残った。それが、私が感じた虚脱感の正体だったのだろう。


主人公華恋の物語について


 最後に主人公華恋の物語がどうつつましかったかを語ろう。繰り返すようだが、シナリオが小スケールことは本質的な問題ではない。問題ではないが全く好みではなかった、そういう人間の主観もまじってはおります。

 まひるちゃんのレヴューのなかでひかりが自主退学した理由や過去に華恋と距離を置いた理由が、舞台への怖さと華恋への怖さ(とりこまれてしまう危惧)だったというのがわかる。そして華恋は放浪と回想シーンの中で、すでにひかりとの約束が守られないのではないかという恐怖をずっとかかえていたこと、そしてひかりとともにスタァになる以外の目標を持っていないということが明かされる。しかしひかりとともに新たな舞台を見つける、みたいな感じ(ちょっと覚えてない部分がある)

 まず良かったところを挙げると、華恋の弱さがようやく描かれたところ。TV版において華恋はなんの運命も闇も思考もやどさない、虚無みたいな存在だった。「ひかりと一緒にスタァになりたい」という5歳の目標をずっと実行するだけの存在。
 しかし今回は華恋の恐怖、ひかり以外の目標が無いという脆弱さが描かれたから、ようやく人間になった感じがする。しかし5歳の約束だけで日本最強の演劇学校に行くまでに続けられるのか…とは思わなくもないが、アニメの5歳児は強いという伝統があるからいいか。
 ひとつだけ思うのはひかりしか目標はないという問題をひかりちゃんが出てきて解決しちゃうのは解決になっていない気がする。まあとってつけたような課題だしどうでもいいや。


 ここで主観的な話をさらにすると、回想シーンは長すぎる上にだるかった。TV版未視聴の観客も想定してそうな感じとはいえ、もう華恋が運命と呼ぶものがただ「大きくなったら女優になろうね」というだけのものでしかないことを知っているし、やっぱりそれはドラマチックにならない感じがした。
 現在のパートが軒並み超現実あるいはマニエリスムな異空間だったから、むしろ過去回想パートの方がリアルというのは目新しかったですね。回想というより幼稚園児が未来を幻視している作品にも何度か見えたわ。

 また中学生時代の回想シーンも謎といえば謎。モブの男子中学生が「愛城にも不安とかあるんじゃないかな」とか言うシーン。いや、いちばんエモいところ知らんモブ(しかも回想、しかも華恋がいない場面)に言わせるなよ!と思ったけど、そういう補完じたいはいいと思う。だがそういう言葉をほかのメインキャラに言わせられなかった(=その程度の関係性すら描写できていなかった)というのはこの作品の弱さかもしれない。

 そしてひかり。自主退学しちゃったことについて、「華恋が怖かったから」っていう理由は面白くないし「なんで今更?」感あるけど許せます。あれは音ノ木坂学院や大洗女子学園が廃校になったり、エーデルローズが借金を背負ったり、地球連邦が腐敗したりするのとおなじで、主人公が動くための理由は無理矢理にでも用意した方がいいんです。それがあるだけTV版より物語もマシになったのかも。

 だが、ひかりも華恋も「舞台にあこがれる、役者にあこがれる」ということについて、舞台がキラキラしてて美しいから、以上の理由が無かったのはやっぱり魅力に欠ける…。TV版含めて「自分以外のものを演じる」ってことについてなんの言及もなかったですよね。せいぜいまやが神の器とかなんとか言うくらい。


 一方でひかりの弱さをまひるちゃんがこじあけるというのはいい展開でしたね。まひるちゃんのレヴューがいちばん面白かった。やってることはTV版の延長で、演出も控えめだったけど。やっぱまひるちゃんがいちばんいいキャラだ。
 それに「書き割りで構成された空虚なオリンピック」というモチーフが、どうしようもない形でオリンピックが強行開催される現実とリンクしてましたからね!しかしまひるちゃんには華恋のスケになることあきらめないでほしかった(まだ言ってる)。

 そして最終盤、あんまり覚えてないんだけど、ここはむしろもっと激しい演出があってよかった感じがする。まあ私はすでに「スターになりたい子供がスターになる」だけのシナリオになんの興味もないのでした。シンプルな物語だからこそいろいろ感情移入できた、という方を否定するつもりはないのですが、様々な演出から香った演出意図の物語の断片には遠く及ばないものでした。以上。


おまけ(大衆性について)

 ここから、作品で語られたことの外で思ったこと。商業的な観点の介在について。
 このメディアミックス企画が『アイドルマスター』を筆頭にした二次元アイドルもののヒットに影響されたものなのはさすがに間違いないだろう。同じブシロード謹製の「バンドリ」がアイドルではなくガールズバンドを題材にしているのと同じように、モチーフを外したうえでアイマス商法をやるという手法だろう。


 しかし当然ながら舞台女優とアイドルはだいぶ違う存在だ。だけど見ていて、それは舞台少女じゃなくてアイドルじゃね?って思う場所があった。
 劇場版でキリンが「舞台少女には一瞬のきらめきがあって消えてしまうのがすばらしい」みたいなこと言ってたけど、もしかして:アイドルと思ってしまった。みんな子供とはいえ拙い演技を味わうような段階にはなさそうだし、その語り方はなんかズレている気がした。これから女優になろうとする人をなんでアイドルとして消費しようとしてんねん!

 華恋が学校での演劇でひかりと一緒に主役張れただけで目標を見失ってしまう(最終版のセリフ)のも、それアイドルじゃね?って思った。アイドルなら17歳で頂点のステージに立つこともあるが、あくまでプロの舞台にあこがれてプロの舞台女優になるというのがひかりとの約束で目標だったはずだ。そこで燃え尽きちゃうってことはないだろうと思った。
 どこにもアイドルはいないのに商業的な理由でアイドル的ななにかがちらつくのはちょっと嫌だった。


 また、カップリングを明確に押し出して、群像劇を描かないのも、商業的成功が前提にあるのだろうかとも思った。公式カップリングを明確化して、マイナーカプだらけになって人気が分散する目的があるのではないかと思った。さすがに邪推で、間違ってるかもしれないけど。
 少なくとも本作のレヴューがTV版と同じ組み合わせ(まひるちゃんだけひかりと絡んだ以外)だったのは、安直にファンが見たいものを見せたろうというサービス精神を感じた。
 私はもっと知らない関係性を見たかったが、隣に座っていたオタク(赤の他人)は双葉と香子のレヴューを見て泣いていたので、それはそれで正しい選択なんだろう。

 その一方で双葉と香子は日本舞踊出身なのに、レヴューで演じるのが(日舞と関係深い)能や狂言ではなく、なぜかヤクザ映画(そしてデコトラもヤクザ映画とは違うはずだ…)なのは個人的にとてもよかった。俗っぽい大衆性を優先する姿勢が良かったり悪かったりしたが、不思議な演出をやりつつも大衆性をあくまで考えていること自体は映画としていいことだと思う。


 私はこれから『少女歌劇レヴュースタァライト』をすばらしい作品として挙げることはないと思うが、いままで生きてきたなかでも重要な映画体験になったことは間違いない。稀有な作品だし、誰かのベスト映画にもなりうる作品だなという感じはある。心をかき乱してくれた怪作に感謝します。

2023年10月追記:久々に見直した。けっきょくのところ、前半に比べて後半が盛り上がらないというだけだったんじゃないか?!と思った。
良いと思ったところはこの文章と同じ(皆殺し、セクシー本堂、真昼ちゃんのレビュー)なんだけど、それ全部前半で、その後のレビュー(純なな、まやくろ、ラスト)は演出的に間違いなく劣っていると思った。
つまらないシーンを中盤に置いて、終盤にセクシー本堂くらいの面白い演出が最後に畳み掛けられていたら、良い気持ちで見終われたかもしれない。

にょ