シンエヴァ感想

※めちゃネタバレではありますが内容の解説はしていません、あくまで見た人向けです。


 俺は危惧していた。『シンエヴァ』が世紀の大傑作だったらどうしようと危惧していた。エヴァという作品が「90年代の病的なブーム」から「永遠に語りつがれる傑作」になってしまったらどうしようと思っていた。
だってあんな凄く美しく終わったテレビ版と旧劇を、もう一度風呂敷広げて、あれらを超える作品を作れるとしたら、奇跡としかいいようがない。そんなん人類史に残ってしまう。イデオンを超えちゃう!
 奇跡的傑作を見られれば嬉しいが、シンエヴァ以後の世界で作品を作る身として、もしそんなことになったら絶望だと思っていた。
が、そんな期待と不安はばっさり打ち切られた。

 シンエヴァは駄作でも傑作でもなかった!おおむねすべてがオタクの考える「エヴァってこうだよね〜」的な想像の範疇で、すべてが範疇内なりに面白い、ふつうのエヴァ映画だったからだ。世界一よくできた二次創作と言ってもいい。

 斬新な設定をバシバシ盛り込むし、わかりにくい設定は全部説明するし、バトルは面白い。そんな素晴らしい娯楽大作だった。

 しかしテーマは陳腐で、旧作に比べてなんの進歩もなかった(後退すらしている)。それについてこれから語りまくるが、私は見ている間ずっと楽しかったということは言っておきたい。

それっぽいだけのメタ演出

 まずテーマのしょぼさを語るうえで重要な、最終盤について語ります。
作品の終わりかたとして私にとって重要なポイントは、全部メタしちゃうのか、それとも物語劇を全うするのかだった。
いままでの張り巡らされたループもの的な伏線を、やっぱりループものでしたよーと言って、メタ作品である「新世紀エヴァンゲリオン」をさらにメタ化するという蛮行に出るというのが一つ。
それとも旧作との関係は単なるパラレルワールドとして、メタされない物語内の堅実な現実として描くことで、逆説的なリアリズムをもたらす方法が一つ。
私は前者になると予想していたが、シンエヴァはどちらでもなく、テレビ版と同じようなレベルのメタネタをやった。ループものではあったが、そのループが旧作とどういう関係性を持つのか、物語設定としてもメタレベルの話でも語られない。

 リアル調のCGや製作途中のCGボーン、実写に鉛筆画、屏風絵の金箔風の背景、濃絵風の空間……。実に多様な表現を見せてはくれた(それ自体は悪くない)が、それでメタメタ化するわけでもなんでもなく、曖昧な形でメタ性を出すにとどまった。

 旧作では「アニメ=虚構/実写などで表現される世界=オタクが帰るべき現実」として描かれたが、今回はそういう明確な対比もなかった。私の読解力不足かもしれんが、単なる「エヴァのパロディ」みたいに見えた。

 あと、テレビ版と旧劇と新劇のタイトルが高速で映されるのとか、「もうそれ前に見たよ」ってなる演出ばっかりだった。
 もちろんそのテレビ版と旧劇の既視感は狙ったもので、その上で差異を見せようとしているのもわかる。

 が、本作が示した旧作との最終的な違いは「恋人をつくる」、「子供を残す」「碇父子のバトル」だけだった。


テーマはいったい…


 もちろん「恋人」「子供」として描かれたものはそれぞれ「安心できる他者」、「次世代に繋がる命」の象徴であって、単に恋人と子供作れって言っているわけではないのはわかる。
 だがどうにしろそれは他者との関係性の中に居場所はあるよって話だ。つまり旧作と本質的には何も違わない!身体性を強めただけである。
 裸体を恥ずかしがらないアスカの描写や授乳するヒカリの姿は自然主義的な身体性の肯定と見えた。そういう方向性が無意味だとは思わないが、かといって特別な意味も感じない。

 「父子のバトル」ってのはいいと思う。結論から言って、そこをアップデートするためだけに新劇場版が作られたということになるが、それだけのために作る価値はあったんじゃないかと思う。
 特にゴルゴダオブジェクトでの戦いもどきは最高。教室で十三号機と初号機が槍を突き合わせるカットが私にとっての新劇場版ハイライト。作られた舞台でまやかしの戦いを演じるというのは『ダイターン3』や『ビューティフルドリーマー』でやられているけど、テンポ感と絵面のバカバカしさが段違いに高い。素晴らしかった。
 そしてじゃれあいのような戦いののち、話し合いと自分語りに移行する。いきなりゲンドウの知らない過去がとうとうと語られるのは作品としても強引だし、ゲンドウの人物像としても傲慢すぎないかとは思うが、その強引なテレビ版26話の続き感も二次創作っぽくて面白かった。

 で、結局明確な和解という形をとらずに終わるのもいい。ゲンドウは勝手にシンジのなかにユイを見つけ(?)シンジは母と父の関係を見送って終わる。あんまりどういうことなのかわからないけど、物語の中核が親子関係から一人の大人の物語に切り替わったと読める。だが、そっからは別に面白くない。


落とし前をつけるってなんだ?

 一応もう一つテーマとして「落とし前をつける」ということがある。ミサトの決意として、そしてシンジの戦いの覚悟として、この言葉が繰り返し使われる。
 落とし前…ことの責任と後始末を担う。それはたしかに一般道徳的に正しいふるまいだが、作中でシンジくんとミサトさんが「落とし前をつける」対象は世界を破壊したこと(に深く関わったこと)だ。
 だがそもそも世界をぶち壊す結果を産んだことに、落とし前ってつけられるのか?たとえば911テロの落とし前って誰がどうつけた?アメリカは911の落とし前として、イラク戦争を起こしたけど、誰も何も得るものはなかったし、テロは減らせなかった。かといって組織と対話とかできる状態でもなかっただろう。
 殺戮や暴力や大災害に落とし前なんてつけられない。つけられるというのが、まさにアニメチックな幻想ではないか。
 で、実際シンジくんはゲンドウたちが用意したゴルゴダオブジェクトで現実改変して世界をスッキリさせちゃう。
「でぇじょうぶ、ドラゴンボールでやり直せる」みたいな話のオチでした。
 そんな都合のいい現実改変ができてしまった日常をシンジ君はよく正気で生きられるなぁ。

 っていうかその場合一番の功労者は使徒からの人類滅亡を防いだうえで神殺しの力とゴルゴダボックスを用意したゲンドウになるよな。いいのかそれで…。


まあ庵野監督がエヴァという作品に責任を取りましたよってことなのかな。

テーマについてのまとめ

 ということで「碇親子がバトった末に少しわかりあう」以外何も進歩がなかったです。
 俺は嬉しくてしょうがなかった。序から十四年引っ張って結局全く同じかよっていう。これならエヴァにさよならして、新しい作品で新しい時代が拓ける道ができる。庵野秀明恐るるに足らず!みたいな。
古いぶどう酒は古い革袋に入れろという聖書の言葉通りだ(エヴァオタしぐさ)。

 しかしさようならすべてのエヴァンゲリオンつってエロ同人が出てくるとか、庵野がエヴァのコスプレして出てくるとかそういうのが見たくなかったかと言えば見たかったよ。

これでテーマに関しては終わり。あとは個人的に良かった点と悪かった点を述べます。


個人的に良かった、面白かった点

・マクロスっぽい戦艦戦闘
・悪の幹部すぎる冬月
・アスカの使徒化かっこいい
・金箔風背景の構図がめちゃかっこよかった
・目からビームを撃つゲンドウ
・ゴルゴダオブジェクト内全部
・いきなりしゃべりまくるゲンドウ(良かったか?)

 マクロスっぽいのは流石に意識している気がする。ヴンダーが手で殴るのはどうみてもダイダロスアタックだったしATフィールドを集中させるのはピンポイントバリアだった。庵野が最初に関わったアニメのオマージュが出るのは熱い。
 あとイデオンの「弾が出ないのよー」っぽいシーンもありましたね(オマージュなのかはわからん)。ちゃんと弾が出るし当たる!だが「シンジさんは恩人で仇なんですぅ」って気づくの遅くないか?

 冬月がノリノリで戦闘していてめちゃくちゃうれしかった。冬月もエヴァか使徒になってほしかったな。それかガンダム作ってくれ。

 アスカの使徒化はかっこいいんだけど、絶対負けるぞってのが見えているのが良かった。旧劇と同じで負けイベ感あふれているのがすごくいい。オリジナルがどうのみたいな設定は少し気になる(綾波みたいに最初からいっぱいいるのか、破で使徒に浸食されたときにコピーされたのか)けどどうせ特に意味はないだろうから、どうでもいいですね。

 今回はゲンドウがいきなりなにもかも説明しまくるのでワロタ。やっぱ冬月との二人暮らしは息が詰まるのかな。そんだけ饒舌にしゃべれるならさっさとコミュニケーションとって終わってただろって作品だが。


悪かった点:前半の田園物語はなんだったの?

 あの前半のえせ昭和を舞台にしたおはなし(友人のかくまい君曰く「綾波のなつやすみ」)。あれはなんだったんだよ。

 復興みたいなモチーフのもと、労働、稲作といった古来からの人間の生き方を通して綾波初期ロットとシンジくんが立ち直り、成長していく。
 その筋書き自体は否定しない。いきなり高畑作品みたいになるのは面白いとは思う。これを予想した奴はなかなかいないと思うし。序盤でミサトさんが「あなたが守った街よ」とジオフロントを見せたのとぱっと見対照的でもある。

 だがその描き方がやばすぎる。
 あの戦前-戦後直後のような世界には優しいモブのおばちゃんがたくさんいて、たくましく生きているというのは幻想すぎる。
 
 昔ながらの生活はみんなが助けあっていたとでも言うのだろうか。ハハハまさか。というかなぜエヴァが世界をぶっこわすと”昔ながら”の農村が発生するんだ。

 棚田風の田んぼが描かれていたが、棚田というのは中世式の用水システムの極致であり、たった14年で現代人が作れるものとは思えない。というかあれだけヴィレが電気使ってて村にも稼働する転車台とかあるのに農作だけ手作業なのか…?
 あと梅干しいっぱい作ってたけど山間部の集落で遠出もできないのに塩はどこから手に入るんだ?

 別に設定をつつこうとは思っていない。あの世界はだいぶ我々の住む世界とは違うようだし何かしらあるのだろう。だが、それが我々視聴者にとって「地下からにょきにょき生えてくる要塞都市の武装ビル」と同じくらい幻想だってことは事実だ。まったく地に足がついてない設定だ。
 つまりあの「謎ノスタルジー」は今までの描写へのなんらかのカウンターのようなフリをしながら、結局「怪獣とロボットで戦いながら普通に中学校に通う」という都合のいい世界そのまんまなわけだ。

 それ自体はまあいいが、そんな嘘で出来た舞台で子供がどうのみたいな話されても欺瞞でしかない。細田守の『未来のミライ』と同じ寒さを感じた。

謎な点:ゲンドウはダメでミサトさんはアリなの?

 最後に私が引っ掛かった点。親としてのミサトさんについて。

 ミサトさんは14歳になる子供に対して自分が親であることを伝えず、下部組織の人に育てさせている。
 これは明確にゲンドウと同じことをしている存在であることが示されるが、決定的にあわれな存在として描かれるゲンドウと違ってミサトさんはなんとなく肯定される。意図的に描いているんだろうけど、どう違うのか私にはよくわからなかった。
 違いというと、子を遠くで見守っている点。環境を整えてあげていそうな点。仕事で責任を果たしている点。
 どれも子供にとっては本質的な違いではないのではないか。

 『ブレンパワード』という作品で愛着障害を起こしているジョナサンという青年が、仕事に熱中して愛を注いでくれなかった母親に対して言うセリフがある。母親が職場に昔自分が送ったクリスマスカードを貼っているのを見て、「あんたにはカードを持ってみせるような見せかけの愛しかない!」という。「こんな事やられたって、子供にはわからない!伝わらないんだ!」
と言う。ジョナサンはどうしようもないクズなんだけど、それだけにこの台詞は重い…。

 私には子供に嘘をついて勝手なポーズを作っているミサトさんがいい親であるようにはとても見えなかった。送られてきた写真をやさしい表情で眺めているカットがあったが子供に伝わらない愛なんて、ほとんど無いのと同じだと思う。
 もちろん戦う人間としての彼女は立派だが、それと親としての姿は全く別だ。なぜあれで親としての姿まで肯定されるのか意味がわからなかった。少なくともそういう描き方をするんだったらもう少し息子のリョウジに喋らせるべきだろう。シンジくんは「いいやつ」って言ってたけど状況的に誰だって愛想は良くするわ。
 そもそもそんな設定を持ち込んだ理由もわからなかった。配偶者の遺産を別の目的に使っている点もゲンドウと同じだからその対比はやはり作為的だと思うんだけど。もう一度見るときにはもう少し注目したいが、私には身勝手な「大人も頑張ってる」的な慰撫に見えた。
 あと命を棄てることの美が描かれていたのも、なんというかつながらない感じがした。無理矢理熱い展開にしようとしている感じがした。

 まとめ

 娯楽作品としては一級品で、テーマ性は出がらしのごとし。自分にとってまさに最高の終わり方だった。

 それにしてもあの農村描写は謎だ…。『シン・ゴジラ』では庵野さんの政治性の無さが売れる方向にいったけど、本作では完全に空中に浮いた土地設定となってしまった気がする。

 あと最後の駅でのシーンは大人になったことを示す記号的なものではあるが、みんながカップルになった感じでつまらない大人になってしまったような感じがしてさびしかった。

 庵野監督の次回作も楽しみです!


にょ