20世紀エストニアにおける音楽の受容【前編】

 「芸術は人を愛する」。これは、私の所属する東京芸術大学が2019年の秋に学内で募集していたプロジェクト『I LOVE YOUプロジェクト』のキャッチコピーです。この言葉を読んだ時、真っ先にある国について思い浮かべました。バルト三国の最北端に位置する小国、エストニア。

 エストニア人は「歌う民族」とも称されるほど、彼らにとって音楽とは民族の最重要のアイデンティティです。音楽は彼らの生活の一部として、古来より親しまれてきました。

 エストニアで音楽の存在が際立つのは20世紀。悲惨な陸上戦が行われた第二次世界大戦下において、人々は音楽を聴いたり、奏でたりすることで安らぎを得たり、民族としての精神を保ち続けました。エストニア人の音楽への情熱は独立にも深く関係しています。ソ連占領下の1988年に開催された民族伝統の祭典『歌と踊りの祭典』において、全国民の三分の一にものぼる30万人が参加し、当時禁止されていた民族音楽を母国語で合唱。これによってナショナリズムが高騰し、1991年8月20日に完全な独立を果たしました。無血で独立を達成したこの出来事は「歌う革命」とも呼ばれています。

 このようにエストニアの社会はまさに音楽の力により動かされてきました。特に、20世紀のエストニア社会に果たした音楽の役割には特筆すべきものがあると言えるでしょう。今回『I LOVE YOUプロジェクト』の採択を受け、20世紀エストニアにおける音楽の受容を研究する機会を得ることが出来ました。

 はじめに情けないお断りを入れさせていただくと、本来この研究では現地を訪れ、様々な調査を行うつもりでした。ですが新型コロナウイルスの蔓延によりそれは実現することが出来ず、書き終えてみればエストニア音楽史入門のような形となってしまいました。ですが、この記事が少しでもエストニアの音楽への興味のきっかけとなり、そして日本の音楽社会に対する考察の一助となれば幸いです。

■エストニアについて

 さて、本題に入る前に皆さんはエストニアと聞いてどんな事を思い浮かべますか?

 バルト三国、昔ソ連の一部だった、北欧のあたり…このあたりでしょうか。日本ではバルト三国の一部として考えられる方が非常に多い印象を受けます。これは間違いではないのですが、バルト三国よりもむしろ、北欧諸国のフィンランドやスウェーデンの方が歴史・文化の両面においてエストニアと関わりが深いのです。(人によってはそもそもバルト三国を一括りに扱う事自体に相当無理があるという意見も。程度の差はあれ私も長らくそのように感じていましたが、最近ではむしろ、まさに現在バルト三国の歴史の出発点にいるのではないかとも考ております。この辺りにつきましては長くなりますのでまたどこかで…。)

 そんなわけでこれから先の本題についても、エストニアを北欧諸国の一部ととらえると理解がスムーズかもしれません。

 前置きが長くなりましたが、次からいよいよ本題に入ります。

■20世紀以前のエストニアの音楽社会

 まずは20世紀に入る前に、それ以前のエストニアの音楽事情についてご説明します。

 最初期にエストニアにやってきたクラシック音楽はバルト・ドイツ人によるものと考えられています。芸術音楽の受容は上層階級に留まり、一般市民に馴染みのあるものではありませんでした。

 1819年に農奴制が廃止されるとその状況が大きく変わります。19世紀半ばになると、エストニアの文化生活が大きく進歩し音楽文化はより盛んになります。音楽教育を含む学校教育の質が向上し、合唱団やブラスバンドがあちこちで設立されました。現在も音楽文化の中心地となっている首都タリンのエストニア劇場、タルトゥのヴァネムイネ劇場が設立されたのもこの時期になります。1869年にはタルトゥ市で、現在まで国内最大の祭典として続く『歌と踊りの祭典』の第一回が開催されました。(後編で詳しく記述します)

 着々と音楽文化が活気づく中、ついにエストニアではじめての管弦楽作品を完成させた作曲家が登場します。それがエストニア音楽の祖と言われるルドルフ・トビアス(Rudolf Tobias, 1873-1918)です。彼は同時に、エストニア初の職業音楽家とも記述されます。当時エストニア国内には専門的な音楽学校が存在せず、初期のエストニアの音楽家の多くはサンクトペテルブルク音楽院で教育を受けましたが、彼もそのうちの一人でした。サンクトペテルブルク音楽院にてオルガンをルイ・ホミリウス(Louis Homilius)に、作曲技法をリムスキー・コルサコフに学んだトビアスは1896年にエストニア初の管弦楽作品『悲愴的序曲<ユリウス・カエサル>』を完成させます。

 ルドルフ・トビアスとほぼ同時期に同じく管弦楽作品を完成させたエストニア人作曲家がいます。アルトゥル・カップ(Artur Kapp, 1878-1952)はトビアスと共にエストニア音楽の祖として名を連ねる人物です。最初に管弦楽作品を完成させたのはトビアスでしたが、彼は20世紀には活動の中心地をドイツに移し(1914年にドイツ国籍取得)、その後没するまでベルリンにいたのに対し、アルトゥル・カップはエストニア国内で活動し、1919年に設立されたタリン高等音楽院の教授を務めるなど教育にも力を注ぎ、エストニア音楽の発展に直接的な貢献を果たしました。

 ここまでが20世紀に入るまでのエストニアの音楽事情です。音楽文化が繁栄の兆しを見せ、それは20世紀に入り花開きます。しかしながらエストニアの20世紀とは、独立を果たした誇りに満ちた歴史を持つ一方で、ナチス・ドイツとスターリン率いるソ連という大国に翻弄された、エストニア史上最も筆舌に尽くし難い悲痛な歴史を持つ世紀でもあります。暗雲立ち込める生活の中で、音楽はどのような役割を果たしていたのか。次回中編からは歴史的背景により着目しながら記述したいと思います。

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