20世紀エストニアにおける音楽の受容【後編】

 1940年にソヴィエトに併合されたエストニアは、第二次世界大戦の間ソヴィエトとナチス・ドイツという2つの大国に翻弄される運命となります。

■ソ連占領後(1940年~1991年)

 ソヴィエト占領下となり共産主義体制となったエストニア。ソヴィエトは恐怖によってエストニアを支配しました。非共産党員の政治家や役員が国家の敵として逮捕され処刑され、それだけでなく、無作為に選ばれた10000人もの人々、主に女性や子供がシベリアに追放され強制労働収容所で処刑されるか、衰弱し死亡したのです。また、50000人もの男性が赤軍に強制的に徴兵されました。元々少なかったエストニアの人口はこの時期驚異的な速度で減少し、そこにソ連の人々を入植させることで人口を補うとともに(いわゆる「民族同化政策」)国のソヴィエト化を進めたのです。

 エストニアの悲劇はこれでは終わりません。1941年6月、ナチス・ドイツ軍がソ連に侵攻し、エストニアを巡ってナチス・ドイツとソヴィエト連邦による戦闘が開始されたのです。悪名高い焦土作戦によって、美しい街並みは焦土と化しました。

 痛ましい事に、ソ連軍およびナチス・ドイツ軍の “双方” に大勢のエストニア人が動員されました。(ナチス・ドイツ軍にはソ連に反抗するエストニア人義勇兵が参加したのです。)それはすなわち、エストニア人同士の戦闘を意味します。2015年に公開されたエストニアの戦争映画『1944 独ソ・エストニア戦線』では、対立関係になってしまったエストニアの青年の悲劇が描かれています。

 このような情勢の中で、意外にも音楽家たちは多忙な日々を過ごしていましたた。コンサートや、作曲家には革命歌を合唱曲に編曲したりする仕事など、膨大な量の仕事がありました。劣悪な情勢下において、音楽によって人々は現実から離れ、やすらぎを得ることが出来たのです。音楽は戦争下の社会の中で非常に重要な役割をもっていました。

 1940年にナチス・ドイツ軍に占領されたエストニアでは、共産主義者とユダヤ人の弾圧がはじまりました。ヨーロッパの中でもエストニアはユダヤ人に対する差別意識がなく、古くから対等な関係を築き共に暮らしてきた人々であり、このような措置はエストニアの人々にとってとても受け入れられませんでした。

 このような弾圧から、音楽家も逃れることは出来ませんでした。エイノ・エッレルの妻はユダヤ人であるという理由で処刑され、エドゥアルド・トゥビンの親友であり、彼のヴァイオリン協奏曲第1番を初演したトゥルガンは、シベリアに強制送還されたきり帰ってこなかった。また、加害者となってしまう音楽家もいた。ヴァネムイネ管弦楽団のヴァイオリン奏者の一人は、ドイツ軍の命令に従った自主的な民兵組織のメンバーの一人として処刑に参加した。彼が処刑を行った犠牲者の一人には、同じオーケストラのコンサートマスターもいました。

 1944年のソ連軍によるタリン空襲では、エストニア劇場が標的となり、バレエを観劇していた市民に多数の犠牲者が出ました。このような爆撃は戦略上はほとんど意味がないものの、爆撃によってエストニア人の戦闘意欲をなくし将来の再占領を容易にする狙いがあったと考えられます。その数か月後にはタルトゥのヴァネムイネ劇場も空襲により没落し煙となりました。

 独ソ戦は従来の戦争とは比べ物にならないほど悲惨な戦争でした。アドルフ・ヒトラーは独ソ戦を「絶滅戦争」と位置づけましたが、すなわち独ソ戦とは占領や略奪などが目的ではなく、相手を絶滅させることが目的なのです。それゆえに、とてつもない犠牲者の数となりました。その舞台の一つとなったエストニア。まさに大国に翻弄された小国の悲劇でした。

 日に日に戦況が深刻となる中で、亡命をする音楽家も現れました。多くはアメリカに亡命しましたが、地理的にエストニアの近くにいたいという思いから隣国スウェーデンに亡命する者もいました。どちらも、祖国エストニアに対する思いは変わりません。断腸の思いでの亡命だったでしょう。

 1944年にソ連軍に再占領され、1945年9月2日第二次世界大戦が終戦。戦争は終わりましたが、1991年の独立回復まで、エストニアの人々は抑圧の日々を過ごすこととなります。

 ソヴィエトの一部となったエストニアでは文化に対する厳しい統制が行われました。検閲が入り、反体制的な内容は禁止、またエストニア語の歌唱も禁止されました。ロシア人の入植はさらに進み、ロシア語が強制されるなどエストニア民族は存亡の危機に立たされます。

 しかしながら、エストニア人は非常に気骨のある人間。このような状況下でも密かに集会を開いてエストニアの愛国的な歌や讃美歌を歌ったりする事で、民族の精神を保ち続けました。中には見つかり、反逆罪でシベリア送りになる者もいました。しかしながら、エストニアの人々が易々と自身の信念を曲げることはありませんでした。

 1950年代半ばには新世代の作曲家が出現します。エステル・マギ(Ester Mägi, 1922年ー )、ヴェリヨ・トルミス(Veljo Tormis, 1930-2017)、アルヴォ・ペルト(Arvo Pärt, 1935年ー)らは20世紀的音楽語法とナショナリズムを融合させ、新たな道を拓きました。

■歌う革命

 1985年にゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、ペレストロイカと称する政治体制の改革が進められます。これを機にエストニア人民戦線が結成。このエストニア人民戦線が主導した、1991年の独立回復へと導いた一連の非暴力的な革命が「歌う革命」と呼ばれるものです。

 6月に行われたエストニア人民戦線の集会には全人口の1割に達する10万人以上もの市民が参加。会場が「歌と踊りの祭典」の舞台となる野外音楽堂だったこともあり、人々は自然と母国の歌を歌いました。その後も人々はデモの際に歌を歌い、民族の精神を高潮させていったのです。

 そして1988年に開催された民族伝統の祭典『歌と踊りの祭典』では、全国民の三分の一にものぼる30万人が参加し、当時禁止されていた民族音楽を母国語で合唱。1991年8月20日に完全な独立を果たしました。

■まとめ~独立回復後~

 現在エストニアには多数の音楽祭があります。伝統ある歌と踊りの祭典はもちろん、パルヌ音楽祭では日本からのパッケージツアーを組む旅行会社もあり、盛り上がりを見せています。エストニア出身の指揮者ネーメ・ヤルヴィやパーヴォ・ヤルヴィは日本でも人気が高く、エストニアの作曲家の紹介に熱心である彼らによって日本でもエストニアの音楽を聴く機会に恵まれていることは本当に嬉しい事です。

 小国でありながら音楽に対するエネルギーは日本以上のものを感じます。この記事によって、そのエネルギーのほんの僅かでも感じ取っていただければ幸いです。反省点は多々ありますが(本当に…)、これにこりずに将来エストニアの音楽について調査し、こうして発表したいと思います。おそらくずいぶん先の話となりますが、その時は是非読んでくださいね。


■参考文献

石戸谷滋『民族の運命-エストニア-独ソ二大国のはざまで』草思社、1992年。
大中守『エストニア国家の形成ー小国の独立過程と国際関係』彩流社、2003年。
小森宏美『エストニアの政治と歴史認識』三元社、2009年。
小森宏美『エストニアを知るための59章』明石書店、2012年。
小森宏美、橋本伸也『バルト諸国の歴史と現在』東洋書店、2002年。
志摩園子『物語バルト三国の歴史』中公新書、2004年。
鈴木徹『バルト三国史』東海大学出版、2000年。
伊東孝之、中井和夫、井内敏夫編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版、1998年。


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