20世紀エストニアにおける音楽の受容【中編】

 20世紀エストニアにおける、と題しておきながら前編ではその前史のお話で終わってしまいました。中編からはいよいよ20世紀にまいります。

 まず20世紀のエストニアですが、①独立まで②両大戦間の独立時代③ソヴィエト連邦時代(1940~1980)④独立回復後の大きく4つの時期に分けられます。

■独立まで(~1920年)

 さて、20世紀に入りエストニア楽壇(当時はロシア帝国の一部)はますます活気づきます。交響曲や大規模な合唱曲のコンサートが定期的に開かれるようになり、アマチュア合唱やブラスバンドの活動も活発に行われるようになります。そしてついに、1920年に国内初となる音楽学校、タルトゥ音楽学校が創立。その3年後となる1923年にはタリン音楽学校が創立されました。タルトゥ音楽学校の校長はエストニア出身の作曲家エイノ・エッレル(Heino Eller, 1887-1970)が就任し、タリン音楽学校の校長は前回の記事でご紹介したアルトゥル・カップが就任しました。

 まずタルトゥ音楽学校から説明しましょう。まずタルトゥですが、首都タリンに対し、タルトゥはエストニア第二の都市。人口などの規模では劣るものの、タルトゥはエストニア最古の大学タルトゥ大学(1632年創立)を有するなど、エストニア随一の文化都市となっており、エストニアの人々からは「エストニアの精神的首都」とも呼ばれ、愛されています。

 エイノ・エッレルは作曲科の教員として後進の指導にあたり、彼の門下からは優秀な作曲家が多数誕生しました。エドゥアルド・トゥビン(Eduard Tubin, 1905-1982)、オラフ・ルーツ(Olav Roots, 1910-1974)、カール・ライヒター(Karl Leichter, 1902-1987)、アルフレッド・カリンディ(Alfred Karindi, 1901–1969)らは皆彼の門下生であり、彼らによってタルトゥ楽派が形成されます。

 他方、首都タリンに位置するタリン音楽学校のアルトゥル・カップ門下からも優秀な作曲家が育ちます。中でもグスタフ・エルネサクス(Gustav Ernesaks, 1908-1993)はエストニア第二国歌『Mu isamaa on minu arm(わが祖国、我が愛)』の作曲家と知られ、その歌は1991年の独立回復にて重要な役割を果たします。

 ちなみにこの2つの学校の校風は、タリン音楽学校が保守的な傾向を持つのに対しタルトゥ音楽学校は革新的な傾向があるなど、対照的でした。そのため対立関係にあったようです。

■両大戦間の独立期間(1920年~1940年)

 音楽文化が着実に盛り上がっていったエストニアですが、したがってそれは、一般市民の生活水準の高まりを意味します。前回の記事で触れたように、19世紀半ごろからエストニアの文化生活は進歩していきました。さらに言えばそれは民族としての自覚の芽生えであり、1920年の独立の布石であったのです。

 1920年、エストニアはロシア帝国より独立を果たします。1940年にソ連に併合されるまで続くこの独立期間、あらゆる面で改革がすすむ中で、音楽面でもそれまでの保守的な傾向から脱却する作曲家が現れました。

 それまでの時代がロシアの音楽院で学んだ保守的な作曲技法に基づく傾向が強かったのに対し、この時代には独自のスタイルを持ち、ナショナリズムとの関係を重視する作曲家が台頭します。エドゥアルド・トゥビン(Eduard Tubin, 1905-1982)はその代表で、『交響曲第4番<抒情的>』(1943)は作曲以降、ソヴィエトに再占領されるまで繰り返し演奏されるなどエストニア国内で大変な人気作品となります。彼はソヴィエト連邦時代に入り、亡命先のスウェーデンで書いた『交響曲第5番』(1946)によりはじめて国際的な名声を得たエストニア出身の作曲家となります。

 順調に思われた独立期間に暗雲が立ち込めるのは1939年。8月23日にソ連とナチス・ドイツ間で交わされた独ソ不可侵条約の秘密議定書により、東ポーランド、バルト諸国、フィンランドがソ連に渡されました。しかしながら約束(それ自体も一方的なものでしたが)は翌年破られます。1940年6月16日、スターリンはエストニアに完全な軍事的占領と新政府樹立の最後通牒を突きつけました。エストニアに傀儡政権が誕生し、結果、大統領、首席補佐官、幹部、閣僚、元国会議員たちは逮捕され、刑務所や労働収容所に姿を消したのです。

 このような混乱の中で意外にも音楽家たちは忙しく過ごしていました。オペラ・バレエ・演劇そして音楽は、精神を維持し、無法、貧困、戦争から一時的に逃れるためにますます重要な役割を持つようになりました。


 完結となる後編ではソヴィエト占領下の時代から「歌う革命」から独立回復後の流れについて記述いたします。

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