『月と6ペンス』月は女性器で6ペンスは曲がった男性器?
「サマセット・モーム『月と6ペンス』という小説のタイトルについてだが、月は女性器で6ペンスは曲がった男性器の比喩?」
とAIに質問してみたところ、そのような解釈はないとのこと。
どうも納得いかない。
どこかで誰かが私と同じようなことを考えていてもおかしくない筈なのに。
1ペニーじゃなく6ペンスにしたことに、何か意味があるような気がしている。
シックスやペンスには性的な響きがあるし、6は精液の中のおたまじゃくしに見立てられたりもする。
月が女性や女性器の比喩であることは直ぐに想像がつくが、6ペンスが曲がったペニスの比喩というのはなかなか分かり辛い。だが、少し考えれば私でなくても思い付きそうなことのようにも思える。世の中、私よりもスケベな人が殆どなのだし。
イギリスの作家は何だか怪しい人が多い印象がある。
シェークスピアとか、オスカー・ワイルドとか、D•H•ローレンスとか、オーウェルとか。
作家じゃないけど、エンゲルスとか。
作家だけじゃなく、国民全体が変態の国だと何かの本で読んだことがある。
他人を皮肉ったりおちょくったりして、一人で面白がっていたりするところが昔からある。
「それはアイルランド人と勘違いしているからだ」とイギリス人ならば反論しそうではあるが。
題名『月と6ペンス』は、前作『人間の絆』についての書評が「タイムズ文芸付録」に掲載されたときの文句をモームが使ったもの。その書評には、「ほかの多くの青年と同様、主人公フィリップは『月』に憧れつづけ、その結果、足もとにある『6ペンス』銀貨には気づかなかった」と書かれていた。これを読んだモームが、「月」は理想を、「6ペンス」は現実をあらわす比喩として、『月と6ペンス』のストリックランドに応用できると考えたものと思われる。
上のような説があるが、何となく後付けのような感じで嘘臭い。ありきたりでひねりがないから、わざわざそのタイトルにした理由になっていない気がする。
何故月が憧れや理想で、何故足もとにある6ペンスが現実なのか、ピンと来なかった。
小説の内容は、芸術云々というよりも人間関係のゴタゴタがメインだったように思う。
満月もコインも丸く、6ペンスは銀貨で色はシルバーなのだから、月と銀貨とを絶妙に対比させた秀逸なタイトルなのだと解釈されたりもする。
だが、日本人の感覚として、500円玉を月に例えた文章があったとしたならば、そこに詩的情緒や深みが全く感じられそうにないのは何故なのだろうか。
『月と500円玉』というタイトルの小説に共感を得られるだろうか。
『月と6ペンス』は十数年以上も前に読んだ小説なのだが、タイトルの意味が分からずモヤモヤしていた。
知り合いが最近読んで面白かったというのでタイトルについて改めて調べてみたのだが、色々と思うところがあったので今回こちらに私の考察を投稿してみたというわけだ。