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「エホバの証人と輸血献血問題」

例えば仮に、ある有名タレントなど著名人が急性白血病で急逝し、しかもその人はエホバの証人の信者だったとしよう。故人の家族もエホバの証人の信者だったとしよう。

病名も死因も伏せられるかもしれない。

ご存知の通り、エホバの証人の教えでは輸血や臓器移植をすると魂が穢れるとかで、ハルマゲドンの後に楽園に行けなくなるのだとか。

例えばその急逝したタレントがいい年こいた分別の持てる年齢のオジサンオバサンとかで、カルト教団の教義を真に受けて自分の判断で治療を拒否して亡くなったとしても、同情など大してされない。

病名を公表していれば同じ病気で苦しむ人にとって有益な情報が得られたかもしれないし、社会貢献になっていたかもしれないが、それも敢えてされないのだろう。

エホバの証人は輸血すると魂が穢れると主張している。献血にも否定的な見解をしている。人の善意を侮辱する反社会的集団だ。

輸血すると穢れると信者は言う。聖書に書かれているのだと。だが聖書は創作物で神の言葉ではない。輸血や臓器移植で命が助かった人のどこが穢れているのだ?手術した人達やその家族に対して本当に失礼な話だ。

水泳の池江璃花子選手は白血病に罹ったが、骨髄移植をして見事に復活し、多くの人々に感動と勇気を与えた。だがエホバの証人は世の中に不快感をばら撒くだけだ。エホバの証人の教義では「池江さんは死んだ方が良かった」と言っているのと同じだ。彼らの心はドロドロに穢れている。駅前とかでチラシを持って立っているのを見ると、こちらの目が腐りそうになる。早く解散させるべきだ。 

輸血だけでなく献血にも否定的だ。人の善意を踏み躙り他人の人生を侮辱しながら彼らは生きている。「輸血すると穢れる」などと彼らは言うが、白血病を患って骨髄移植をした人も穢れているという意味だ。こんな手前勝手な教義を平気で信じる彼らの方こそ著しく穢らわしい。想像力の歩く墓場だ。

血漿分画製剤は献血由来の製剤で、輸血拒否で有名なエホバの証人というキリスト教原理主義団体でさえも、その使用が認められている。

だがエホバの証人は宗教的戒律により信者自身の成分献血を禁止している。

エホバの証人の聖書の解釈では「神により禁じられている」のだとか。

献血は人々の善意に支えられている。エホバの証人は人々の善意を踏みにじっておいて、自分たちだけが喜んでいるのではないか。

自分たちは成分献血由来である血漿分画製剤を使用しておいて、信者の成分献血を禁止している。

他人の血を使って命を繋いでおいて、「それは神によって禁じられている」とは一体どういった了見なのか。

エホバの証人の教義では輸血は禁止だが血液製剤はOKなのだ。だが、緊急時とかアフリカの奥地ではどのような状況になっているのだろうか。

輸血は禁止で血液製剤はOKだが、献血はNG。だが、血液製剤は成分献血で造られる。

つまりそれは「オレの血はオレのもの、他人の血もオレのもの」状態で、人の善意を蔑ろにし倫理道徳を完全に無視しているのではないか。エホバの証人は邪教の代名詞だ。

教育現場や医療現場を煩わせし続けている。

エホバの証人というキリスト教原理主義団体では、輸血や献血は罪深い所業とされている。

白血病患者は輸血手術をして血を全部入れ替えなくてはならない。そうしなければ死ぬ。

輸血は罪だと言うのは「白血病患者は死ね」と言うのと同じだ。

「エホバの証人以外の人の輸血には反対しない」だとか、「エホバの証人の信者でも輸血するかしないかは本人の判断に委ねられている」だとか彼らは言うが、それで許されるのか。

エホバの証人の信者の存在は、白血病患者本人だけではなく患者の家族や友人や関係者の心をずっと傷付けている。

最初から聖書の解釈が間違っている。そして教祖や長老や信者には霊感など備わっていない。

「目には目を歯に歯を」というが、血を貰い受けた信者は血を返さなくてはならないだろう。

死の危機に直面したイエスは、自分の弟子から「あなたなど知らない」と言われた。

もしも彼らがもがき苦しむ時、イエスと同じように世界中から「あなたなど知らない」と言われるのだろう。

水泳のオリンピック代表の池江璃花子選手は白血病に罹ったが、骨髄液の移植手術を受けて見事に復活した。もし彼女がエホバの証人の信者だったなら、死んでいたかもしれない。輸血や臓器移植は聖書の教えに反するとエホバの証人は主張する。だが、エホバの証人の信者と池江選手では、どちらが罪深いのか。

自分の身を守るためには入信して伝道活動をせざるを得なかった者も中にはいるのだろう。その者に罪があるのかは、また別の問題だ。

エホバの証人は聖書は人間による創作ではないという。聖書は神の言葉であり、史実であり実話なのだという。

だが実際は、人間は神が土を捏ねて造ったものではないし、アダムもエバも存在しなかった。カインもモーセもノアもアブラハムもダビデもソロモンも架空の人物だ。聖書は虚構が織り交ぜられた創作物であり史実そのものではない。神の言葉でもない。そのような書物の教えを信奉していたイエスはもちろん神の子ではなく、ペテン師か妄想に捕らわれた狂人か真性マゾに過ぎない。

信仰の自由はあっても信仰の強要は許されない。輸血禁止は殺人教唆に等しい。エホバの証人は解散させて当然の反社会的なカルト教団だ。

エホバの証人に対する非難の声は日増しに高まっても、信者はそれを神による試練だとかハルマゲドンが近付いている兆しだとか話をすり替えて開き直る。「自分こそが選ばれし民なのだ」と根拠のない妄想に性懲りもなく縋り続ける。高まる非難の声はマゾ集団には愉悦なのだ。つける薬なし。

それでも毒麦は後で取り分けられて火に焚べられる。

もし仮に本物のクリスチャンというものがこの世に存在するのであれば、統一教会やエホバの証人のようなカルト教団を看過して見過ごすことなどできなかったのではないだろうか。

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