精神疾患になった理由と回復までの道のり
私は、母親の「理想の娘像」で固められて育った。
母親が理想とする、「みんなと仲良しのやさしい文系の女の子」になるように。
私は「私以外のもの」にならないと生きていけない人生を歩んだ。
客観的にどうみても、私は算数と数学が得意だった。
でも「理想の娘像」は文系だった。だから、国語が得意なのだと決めつけられた。
体育はそこそこ走るのも早く、球技もそこそこ得意だった。
でも「理想の娘像」は運動神経がよくない。なぜならば心のやさしい文学女子は運動が苦手だから。
憧れのお兄ちゃんもいた。
でも、その憧れのお兄ちゃんは「理想の娘像」では好きにならない人だった。だから、ほかのお兄ちゃんのことが好きなのだといつもみんなの前で吹聴され続けた。どんなに否定しても。
私は物心ついたころから自分の好きなものはわからなくなり、20歳を過ぎる頃は本気で結婚相手は母親と姉が選んでくるのだと思っていた。
留学して、母親と姉が知らないいろんな影響を受けて帰国した私を、母親と姉は拒絶した。
「宇宙人になって帰ってきてしまった。何言っているのか全くわからないから、会話に入ってこないでほしい。ねぇ〰。」と顔を合わせて言われた。
私の人生の最大の目的は「母親と姉に嫌われないこと」だったので、私は留学前に戻る努力をした。せっかく話せるようになった英語も封印した。(実際は英語を使うと恐怖を感じ、パニックになるようなってしまった。)
母親と姉にまた好いてもらえるよう、精一杯努力した。
その結果、悪性リンパ腫を疑われるほどリンパが腫れ、仕事が続けられないまで身体を痛めつけた。
母親がいばることが好きな人であると知っているので、母親がいばれるとおもう家族をもつ夫と結婚した。母親の生活を一生面倒みてくれるであろう夫と結婚した。
どんなに私が努力しても、よくない方向にすべては進んでいく。
姉からは絶縁され、かわいい、私のことが大好きだと言ってくれた甥っ子には会えなくなった。
母親の過干渉はどんどんひどくなり、夫からはモラハラをうけ、脳が正常に動かなくなった。
離婚後、母親はストーカーのようになった。私がやめてほしいとお願いすることばかりするようになった。
お金に余裕がなく状態で、親戚のお葬式に献花を依頼された。お金がないから5000円くらいのものしか送れないと伝えると烈火のごとく怒った。
「私に恥をかかせる気か」
給料日まで本当にお金がなかったので、生まれてはじめて借金をした。
そこで、最終的に私の何かがこときれたと思う。
借金は雪だるま式に増えていき、転職後収入はものすごくあがっていたのに、借金はどんどん増えていった。
私はすべてをリセットするために、自分を追い込めるだけ追い込んだのだと思う。
何に使ったのかわからないお金をたくさん使い、異常に働いた。
自分のことを殺しまくって、自分を壊したいと思っていたのだと思う。
いま、思うと、自傷行為もこの頃からひどくなった。自分で切ったりしてはいけないと意識しているので、ケガがものすごく増えた。
眼球を戸棚で切ったり、お湯を足にかけてひどいやけどをしたり、自分で髪をきって、指を深く切るまで髪を切り続けて、自分の血をみると安心して、あぁ、またやってしまった。と思っていた。
幻聴も聞こえていたと思う。一年中ずっと鈴虫が鳴いていた。冬の真夜中に真夜中にセミが鳴いていたこともあった。
幻覚もあった。
嘔吐(血もよく吐いた)、熱っぽさ、自律神経失調によるのぼせ、胃痛、逆流性食道炎、貧血、下痢、腹痛、食事中に嘔吐するほどむせること
こんなことは日常茶飯事となっていて、感覚は完全にマヒしていた。
ある日、仕事で大きなミスをした。
普段、ミスをすることはまずない。ビビリだからどんなに忙しくても何回も確認するし、ミスしていることに気付きやすい脳(違いに気付きやすい)なのだと思う。
そこで、私が信頼している上司が「おかしいよ?」と声をかけてくれた。
このとき、私は「あぁ、やっと終われる。」と安堵したことをなんとなくおぼえている。(いま思うと、自分で自分を意識的に追い込んでいたんだと思う)
退職後、しばらく休もうとおもっていたら、2か月ほどしたとき、突然身体が動かなくなった。身体が固まるのではなく、重くて指一本動かない。大げさではなく、本当に動かなかった。
このとき「あぁ、そうか。もう動けないのか。」と生まれて初めて諦めることができた。
しばらく寝て、ベッドから転げ落ちて、ゆっくりとほふく前進してニャンコさんのご飯とお水を交換して、そのまま床でずっと寝ていた。
しばらく自分は何も食べず、床に寝て、ニャンコさんのお世話だけしていたと思う。(水だけは飲んでいたと思う)
その後もちょくちょく10日くらい何も食べられなくなるとかあったけど、自律神経がぶっ壊れているので、まったく痩せない。太る。
私は「誰か助けて」という考えしかなかったので、スピリチュアルに傾倒していく。スピリチュアルの人たちは「私があなたを助ける」とか言うから。(あなたを助けるとかいう人は頼ってはいけないと思う。人を助けられるのは自分自身だけという覚悟がない人は危険だと思う。)
お金ないのに、冷静な判断がぶっ壊れているので50万ちかく費やす。
自分でも図書館にいっていろんな本を読んで勉強していたので、「自分が嫌だと思うことはしない」ことが大事なのではないかとなんとなく気付いていた。
スピリチュアルコーチングの先生が私が嫌なことはしないということを流すだけで、尊重せずに、私が嫌だということをできるようになったらやれと何度もいうので、これは違う。とやっと気付く。(5万円だけ戻ってきた)
いろんな本を読んでいるうちに、私は「自分の感情がわからない」ということに気付く。
自分の感情の蓋をあける必要がある。
自分の感情の蓋を閉じた理由を知る必要がある。
ここで、私は自分が真剣に「毒親」と向き合う必要性に気付いた。結婚生活中に母親がいわゆる「毒親」であることに本を読んで気付いていたのだが、知っていてもずっと無視していた。そんなに大きな問題ではないと思っていた。
スーザンフォワードさんの「毒親」シリーズを読み、ワークを試みた。
これがものすごくしんどかった。
過呼吸は起きるし、母親に対する初めての強烈な怒りは身体中に激痛を走らせる。
過呼吸が起きている中、大量の涙が流れ続け、首から肩、背中にかけて針にさされるような鋭い激痛が走るのだ。
ベッドに倒れこみ、自分で自分をさすり、呼吸に意識をむける。
こちらのYouTubeに頼らせていただいた。過呼吸が治る。
痛みは自分のメッセージだと思っていた。でも、どんなに語り掛けても何も返してくれない。何時間も多分じっとうずくまって痛みに語り掛けた時もあると思う。いつのまにか寝てることもあった。
そして、ある日、また脳が動かなくなった。
このとき、私は「アドラー心理学」を学びたいと少しずつ本を読み始めていた。自分自身を再教育しないと苦しみから解放されないと思った。どういう風に考えれば私は苦しまない生き方ができるのか方法を知らないことが問題なのだと思った。
多分、ある一定のところまで過去の苦しみが解放されて、新しい情報を入れようとしたのだと思う。
「脳が機能しない」
これは経験した人にしかわからない恐怖だと思う。
私はこれまで、交通事故、ぎっくり腰、ガン宣告(2回とも精密検査後ガンではなかった。)、扁桃腺除去術(全身麻酔が解けたあと喉から血が出続けて、痛みがあり、つばが飲めず、ずっと喉にティッシュを詰め続ける)、親友の死など、まぁまぁ、ハードな経験をしてきているほうだと思うけど、ダントツの恐怖は「脳が機能しない感覚」だ。
脳がストップするのである。
何もわからない。ときもある。
異常動作としては、ある音は大きくなり、ある音は聞こえなくなったりする。
本当に、怖い。
結婚生活中に、「脳が停止」して、別居生活をして以降その状態にはほぼならなかった(ときどき軽く道がわからなくなるパニックみたいのはあったけど、そんなレベルじゃない)けど、再発してしまったので、私は心療内科の門をたたくことをきめた。
脳が機能しないなんて、絶対薬を飲まないといけないと思っていたから、薬を飲み始めたら再就職なんていつになるかわからないし、お金もないし、選択肢になかったのだけれど、もう、観念した。自分の力だけでは私を救うことはできない。と。
結果として、とてもいい心療内科の先生との出会いがあり、劇的に回復していった。
薬を勧められることはなく、カウンセリングと病院の勉強会のような会の参加を勧められた。
アドラー心理学をもとにした勉強会に参加し、いろんな心の苦しみを抱えている人たちの話を聞くことで、不思議と回復していくようだった。
また、自分自身の状況、
嘔吐、熱っぽさ、自律神経失調によるのぼせ、胃痛、逆流性食道炎、貧血、下痢、腹痛、食事中に嘔吐するほどむせること
これは「異常」の状態で、身体はSOSを訴えていたのに私は無視していたということを知った。
私は「自分の感情」がわからないので、この勉強会を参加していても、「感情」がわからなかったのだが、参加後、身体が強烈な原因不明の激痛に襲われることがあった。この激痛こそが「怒りの感情」であることを知った。怒りを感じることができないから、痛みで私に知らせている。
勉強会の参加者が「いい、悪い」で判断した発言をすると、先生が「いい、悪いということはないのですよ」といつもやさしく説明してくださった。これをずっと誰にも根気よく付け加えてくださっていることを耳にしているうちに、いつのまにか私に「いい、悪いってことはないもんな」という考えが植え付けられていた。
心療内科の先生から勧められて日記というか、記録をつけるようにした。
分厚いノート4冊にもなった。
いわゆる「認知のゆがみ」(自分のゆがんだ思い込みにより自分を苦しめる見方)をいろんな角度から教えていただいたこと、ほかの参加者さんのご意見を聞く貴重な体験をさせていただいたこと、先生から私自身の認知のゆがみを指摘してもらったこと。
通院中、「毒親」の問題は私が母親と共依存の関係にあることに気付いた。
私は問題は「毒親」である「母親」であるとおもっていた。
しかし、現実は「私」が毒親の母親に執着している、解決すべき問題は私自身にあったことに気付く。
「私」と「母親」は全く関係ないのだ。
「私の人生」に「母親」「生育環境」は全く関係ないのだ。
「関係ある」と私が思い込んで、それを手放せないことが問題なのだ。
「私の人生」はすべて私が選択できて、私のものなのだから。
「共依存」に関する本を図書館で読み漁る。
ついでに精神疾患の本も科学根拠的な本を読んだ。(ニュートンムックなど)
いろんな知識をえることで、自分と母親を客観的にみることがすこしずつできるようになってきたと思う。
私は発達障害と診断はされないかもしれないけど、「自閉スペクトラム」の気が強い。自閉スペクトラムについて何冊か読んだ。
「どうしてそんなこともわからないの?」
これは私が幼いころから母親、姉から言われ続けた言葉で、私を混乱し続けさせて言葉である。
「女のルールがわからないお前がすべて悪い」とも言われた。
私は「女のルール」とやらが本当に理解できない。
また、間違った文法を使った日本語の表現も、私は理解に苦しむ。
YesなのかNoなのか、目的語や主語のあとの「てにをは」が違ったりすると混乱する。
だけど、大多数の人々は間違った文法でも、「なんとなく」わかる。ようだ。
私は「これ、文法おかしいよね?Yesだとーーーーという表現で、Noだと・・・・という表現でしょ?」と聞く。
母親や姉はまためんどくさい、知識のひけらかしがはじまったとわたしを冷ややかな目でみる。
こういう私を混乱させていたことの理由が理解でき、とても楽になった。
そして、母親は「向社会性サイコパス」によくあてはまると思った。
私は、実は気付いていた。私がめちゃんこに傷つくと母は喜んでほくそえんでいたことを。そのとき、「母親は脚光を浴びること」ができるのだ。「娘をかいがしくお世話するやさしいお母さま」として
でも、見て見ぬふりをしていた。
いびつな人間が集まった私の家族を「なんでなんで?」と感傷にひたって悲しむのではなく、一歩引いて、起きた物事を思い出し、思い出を観察することができた。
これも、なかなかしんどい作業だった。
自分が認めたくない。苦しすぎて認められないと実は気付いていたことを再度見直す作業だからだ。
そして、人の心を傷つける行動をする父、母、姉であることを受け入れた。
父は、私が大切にしているものを平気で捨てる。私が尊敬していた人からいただいた大切なTシャツを自分の寝巻にする。これは大切なTシャツだからやめてとお願いしても聞き入れることはしない。
父は、私がぎっくり腰で動けなくなった時にお水をとってもらうよう頼んだ時「自分が苦しい時だけ助けてもらえるなんて思うなよ」といった。本当に苦しんでいるときに、とどめの一言をさす人だ。
母は、私が小学生低学年のころ交通事故にあったあと、両膝を血だらけで帰り、私が母を心配させてたくないと、石階段から落ちたと嘘をつき、そのあと車の運転手だった人が母を訪ねて事情を説明し、実は交通事故にあったと知っても、病院に連れて行かない。末っ子が母親をおもんばかって交通事故を隠したという自分をいかに好いているかということに大きな喜びをかみしめ、いつまでもその話をみなにし続ける。
私がどんな目にあおうと主人公はいつだって母親だ。いい母親を演じきって、周りに一通りアピールしたあと、「いつまで寝てる気なの?」とぼそっと私をにらむ。もしくはため息をつく。
姉は、私の留学中の友人をとても気に入り、私に「○○ちゃんと友達になるから、あなたはもう連絡しないでね。私の友達にしたいから」といった。
姉は、母が事故で骨折したときに病院にいくこともせず、一度も面会にもいかず、私が一人でわがままな母の看病、世話をし、ほかにも多忙であったことでぎっくり腰を再発し、姉に代わりをお願いしたら「あなたの都合ばかり押し付けないで」といい、私に絶縁を言い渡した。
ほかにもたくさんたくさんあるけれど、私は父、母、姉にも理由があるのだから。と父と母と姉に免罪符をいつも渡してきた。
でも、どんな事情があるにせよ、そういう人たちなのだ。
私の一家は、「心」が大切であるということを知らない人たちの集まりなのだ。
いつも、「どうして私だけにみんな頼るのだろう?どうして困ったときに私だけに連絡してほかの家族には連絡しないのだろう?」と疑問に思っていた。
いつの間にか私は家族のために生きる存在にさせられていた。
これまではずっと、わかっていても、見て見ぬふりをしてきた。
無理やり自分自身を理解させようとしてきた。
だけど、「いつまでも忘れない。」「そういう人たちだってことを忘れないで生きて行こう。」とそう強く思えた。
これは、私の中の「恨み」に気付かされるとても苦しい決意だった。
私の中に実はこんなに大きな「恨み」が渦巻いていたことに驚いた。
それでも、忘れない。そう決意し続けた。
すると、ある日、
「もうすべて忘れてもいいかな。許すってことかな。」
という思いが浮かんだ。
これまでは親、姉は受け入れなくてはいけないもの。という思い込みがあったのだけれど、自然ともう手放したいかもしれないと思ったのははじめてだった。
父が、母が壮絶な生育環境で育ったこと、姉だって私と同様の苦しみのもと育てられたこと
そんなことも関係ない。
なんか、過去のこととかどーでもよくて、くだらないと思った。
よく耳にする「苦労があなたを育てた」という考え。
これが、実にしっくりときた。
まだ私は仕事がみつかっていない状況なのだけれど、私は私を誇りに思っている。
誤ったこともたくさんしてきた。逆境に弱くて、すぐ落ち込んで、そのたびに自分に鞭をうって、ものすごく自分を痛めつけてきた。でも、いつだって自分をあきらめなかった。自分でいうのもなのかもしれないけど、私は、私ほどきれいな澄んだ心の持ち主にあったことがないと思う。
母も姉も不完全すぎる人間で、私は彼女たちの未熟さゆえにおおくの心の傷に苦しんできた。
それでも、母と姉は「こころがきれいな妹」を育てたかったことがよくわかる。やり方はとても上手とは言えないし、自分たちでそれを望んでおきながら嫉妬してけなすという愚かさもあるけれど、その願いは確かにあった。
清々しい気持ちで、このことを喜んで受け入れられる気持ちになれた。
これは私が父、母、姉の愚行を決して忘れないと決意したことで現れた奇跡だと思う。
恨み続けるのではなく、目をつぶらず、忘れない。と心に決めた。
愚行の数々をちゃんと記憶し、そのような人間であるということをちゃんと知っている(忘れていない)上で、もしもうまく付き合うことができる方法があるのであれば、付き合っていきたいという覚悟。
よく本で目にする「両親を理解しましょう」というのは「両親の愚行を客観的にみて、蓋をせずそのような両親であることをただひたすらに受け止めましょう」ということなのかもしれない。
両親、姉に対する感謝の気持ちなんてかぞえきれないくらいある。
でも、深い心の傷を負っているのであれば、感謝の気持ちなんかより、自分の心に負わされた傷の理由をちゃんと知ることのほうが大事だ。
きっと私は螺旋階段を上っている中、くそ〰。あいつら。。。と恨みを感じることもあると思う。でも、それでも上り続けてたら、いつの日か、この思いすら忘却の彼方にいくような気がする。
そんなイメージずっと持てなかった。
イメージができるってことは現実になるものなのだと思う。
無職ながら妥協したら負けだ!焦ったら負けだ!と穏やかに闘っております。おもしろかったらサポートおねがいします。