見出し画像

恨みを解放できたらいいのにな。のステージまできたのかな。

精神疾患から回復したなー。(わけもわからず大泣きしなくなった。あぁぁぁぁぁぁ!って脳が混乱しなくなった。いきなり全身痛とか起きなくなった。過呼吸にならなくなった。不安でいてもたってもいられないってことがなくなった。)って思って、精神的に落ち着けるようになって、

1年半の壮絶な、のたうちまわっていたときの記憶がリアルで体感として思い出せなくなった。

いま、就職活動をはじめたのだけれど、じぇんじぇん進まない。笑

応募してるけど、ことごとく書類選考でご縁ないし、面接に行っても、あぁ、この職場無理!とか思う。

この職場無理!って頭で速攻わかっているのに、お金の不安から、でもでもだって。大丈夫じゃね!?っていうせめぎ合いがしばらく続く。

私は、「嫌だ!」「無理だ!」とおもっていることに対して、「わがままいうんじゃねー!」っていう抑えつけがデフォルトになってしまっているので、これを外すのがなかなか難しい。いまは数時間せめぎ合いをすれば、「嫌だ!」「無理だ!」の声を尊重できるようになってきた。

↑これは、たとえば、仕事で使う予定があるわけでもなく、100%趣味のフランス語の個人レッスンで、先生から私の普段の勉強方法についてまで決めつけられて、ダメでもいいから、自分の勉強のやりやすい方法で学びたいといっても、それじゃあ上達しないから。とレッスン中にメモの取り方まで指図を受けて、ものすごくイライラしてて、家に帰ってからわかるようにメモしたいのに、それもできないから家で思うように復習できなくて、イライラする。。。。っていう状態でも3か月もレッスンを続けていた。もちろん行きたくなくて3回くらいレッスン休んだ。

私に問題、原因があるのだから、コミュニケーション次第で解決できるはず。と、とにかく、頑張る。←いつだって職場でやってきたこと。結果、自分を追い込んで、精神疾患になってんじゃんって話。なのに、これがなかなかやめられない。

このフランス語個人レッスンは、レッスン時間をつかって先生と無駄話をして、自分のレッスンの勉強の仕方をこうしたいという話をして、なんとか私がストレスを感じないように。。。と試みたところ、先生から人格否定されたと感じるような発言をされて、もう無理だ。やめよう。とやめた。

いま書いていても、なにかしら対応策はあるような気がしてくるけれど、いまの段階で私に足りないものは「相性ってあるんだから、無理して付き合わなくてもよい」ということで、それを私に教えてあげることだと思っている。(仕事とか顔を合わせなくてはいけないところだってあるのだから。)

あと、メンタル弱弱のは変わらずなので、面接日前夜はお腹を下して、だいたい眠れない。心に蓋をすれば隠せるのだけれど、心に蓋をするのは本末転倒なので、お腹を下している現状をうけとめて対処するようにしている。

とにかく、苦しみを先延ばししないことをたいせつに。

そんな中、面接の予定が入っている日の朝、天気がよいのでクーラーをいったんとめて、ベランダを開けた状態で、トイレに籠城していた(お腹を下していた)。(わたしの猫さんはとても賢くて、ベランダを解放するとベランダにあるケージに入ってくれる)

トイレからでてくると、愛する猫さんがいない。

どこを探してもいない。

やばい。気が緩んだ。どうしよう。

猫さんの名前を呼び続けながら部屋中探す。


どこにもいない。やばい。と青ざめる。全身の血の気がひく。


ベランダに出て探す。。。。と、いた。

もしかしたら隣の部屋のベランダにいってしまっていたのかもしれない。


このとき、私は気付いた。

「いかに自分が高慢で実は愚かな人間であるということを」


私の猫さんは腎臓が弱くて、何回も死にそうになっている。

私が猫さんを救ってあげることができてよかったと思っていた。


いや、とんでもない。

この素晴らしく聡明で賢い猫さんが、愚かな私と一緒に生きてくれているのだ。ここまで素晴らしく聡明な猫さんでなければ、精神疾患の私の状態では、部屋から逃亡したり、なにかしらの事故にあっていたかもしれないのだ。

なんと私は高慢な考えを持っていたのだろうと気付かされ、猫さんにはありがとうありがとう。と本当に心の底から感謝を感じることができるようになったと思う。(これまでも感謝の気持ちは思っていたつもりだったけれど、今と比べると口先だけのような気がする)


そして、父が失明するかもしれないという話を母から聞いた。(連絡しないでくれとお願いしてるんだけどね。)

ものすごく動揺した。

まだ目がみえるうちに顔をみせにいかなくてもいいのか。

まだ目がみえるうちにたくさん会っておかなくていいのか。

まず、アドラー心理学の「共感」について考えてみた。

この、「顔をみせなくていいのか」は私の主観である。父がみたいとおもっているかどうかは知らない。

わからないながら、父になり、父の心に入り、父の頭で考え、父の目で見、父の耳で聞くような想像をしてみる。

わからないけど、別に父はそれを望んでいない気がした。


「顔をみせなくていいのか」の私の主観でこみあげてくる自責の悲しみ、苦痛は「私の執着と依存」の問題なのだと思った。


父と会話をしようと2人で食事に行ったり、以前、何回か試みた。そのたびに、私の話を途中で中断され、「うるさい!だまれ!」と話を聞いてもらえないことに私の心はズタボロに傷ついた。


父は、たぶん、もう私の言い分なんて聞きたくないのだと思った。


すると、母親から「お父さんの目のことを妹に話したよ。と伝えたら、そうかぁ、妹と話ができたかぁ。ってすごく喜んで笑っていたよ。」とラインがきた。


父は、きっと、もう、リアルに対話で分かち合いたいなんて望んでいないのだと思う。

ただ、彼の想像の中で、仲良しの親子関係を楽しんでいるような気がした。


心の奥底で「ずるい。自分ばっか。」という声が聞こえる。

「あんなに私にひどいことをたくさん言っておきながら、すべてなかったことにするなんて、ずるい」


その声と、もうすべて許して解放したいという望みのせめぎ合いが起きている。


父が与えてくれたものにだってたくさん感謝している。

でも、苦しみを多く与えられたと思っていて、ついこないだまで精神疾患でものすごく苦しんだ。


自分の心に蓋をすることなく、

自分のことをいさめることなく、

私が後悔することのないように、

私のやさしい気持ちが父に対する恨みの気持ちに打ち勝ってくれるといいなと思っている。





無職ながら妥協したら負けだ!焦ったら負けだ!と穏やかに闘っております。おもしろかったらサポートおねがいします。