農業もやもや 食料危機2 戦争が起きたら農家が大事にされる?

またもやメモ的な投稿になります。

畑によくきていただく若い植木屋さん、自称ガーデナーさんと題名のような話をしていました。

氏曰く
「戦争はね、起きますよきっと」
まぁ絶対にないとは言えないね。
「その時が来たら、食料不足になるから、農家は大事にされますよ」
…そうか?その農家が働くための石油や肥料も止まるだろうね。そしたら野菜作れないよ。作れたとしても人力でできる範囲だとそれほど作れないなぁ。
「そっか…そしたらトラクターの代わりに馬とか牛を飼ったらいいんですよ」
その馬とか牛のエサは?
「雑草!いっぱい生えてるじゃないですか?」
冬には枯れるけどね。その時はどうするの?
「うーん…北海道みたいにサイレージを作りましょう」


そこで食料危機の話題から目の前の農業機械の整備の話に変わってしまったのだけど、農業始める前の自分もきっとそんな風に思ったんだろうな。なんて思いました。

農家は百姓、つまり百の仕事を持つという意味だから何でもできる。
というのはよく知られた話。
確かにできる人も多いだろう。でも石油は作れない。トラクターや物流のためのトラックを石油無しでは動かせない。
食料危機の話をすると、なぜか都合よく食料だけが無くなる世界像で話が進む。
今も数年前に比べればガソリン代は高くなった。農家という人間が社会で生きるための食糧や社会的に支払う金額も高くなった。それなのに野菜の単価はそれほど上がらない。そしたら量を作らなければならなくなる。

量を作れば、今度は暖冬等で野菜が出来過ぎてしまって需要と供給のバランスが崩れて野菜の単価が下がる。でも、出来過ぎた分本来収穫を予定していた時期に野菜が少なくなる。そしてやっと単価が上がる。
その時期に野菜が少ない事にフォーカスして「食糧危機が来ている!」という人も出るだろうな…

本来そこに自然に生えていなかったトマトやキュウリや白菜を、人の手で人工的に栽培している時点で既に農業は自然なものではないと、自分では感じている。ただし生育だけは、ビニールトンネルやハウス等である程度コントロールできたとしても地温や気温、日照をコントロールすることはできないがゆえ、植物の自然な姿なんだなと思う。
だから豊作だったり、凶作だったりするのは自然な事。永遠に豊作でなければ凶作でもない。


ガソリンが高騰しているから馬とか牛を使った昔ながらの農業をするかと言えばそれも難しい。
昨今畜産の環境負荷が高いとかゲップに税金をかける程の危機感さえあるのに…
糞が堆肥になってよいと言うが、堆肥は生ではむしろ害になってしまうので、それなりの施設が必要になる。その施設を作るための動力は?


農家と繋がった所で、自宅と農家が近かったらよいが、まぁまぁ離れているだろう。昔はリアカーで青梅から新宿まで運んだというから、都会の食糧難を危惧する人はまずリアカーを準備したほうが良いだろう。
食糧が不足しているのにガソリンや工業製品は豊富にあって物流は問題ない世界を想像しがちだが、食料危機の前にガソリン不足、物流や交通さえままならない世界が先ではないか?と自分は思う。

と、そんな事を想った日曜の午後でした。

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