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【少年野球】大人たちの「さびしさ」を埋めるための少年野球。だから簡単には変わらない。

 これまで私は指導者側や関係する大人たちの責任を厳しく追求する記事を書いてきた。少年野球(学童野球)の問題点は、そのほとんどがそれを支える大人たちによって生み出されているからだ。大人が変われば少年野球の現場は変わる。しかしそれが分かっていても出来ない。
 そのもどかしい現実を見て来て確信していることがある。

 少年野球を支える大人たちは、長年そこにいればいるほど自分に居心地の良いコミュニティを作り上げることができる。それが一番の問題である。

 新人監督の時は他のチームの監督になめられたり、大会本部役員に不当な扱いを受けたり、審判に相手有利の判定をされたりする。そのコミュニティに入る通過儀礼のようなものかもしれない。だんだん認知されてくると気軽に挨拶や雑談ができるようになって「どうもどうも」「今年のチームはどうですか」などと、行く先々で知り合いができてそのコミュニティでの立場が確立されていく。
 
 そうなってくるとチーム内とチーム外、どちらのコミュニティにとっても自分が不可欠な人間だと感じられるようになる。「監督」や「コーチ」と持ち上げられ、強いチームなら他のチームから一目置かれて承認欲求も満たされる。不当な扱いには堂々と抗議できたり、駆け引きもできるようになる。場合によっては「不当な扱いをする側」になって自チームに有利にものごとを運べるようになる。
 でも仕事とは違って本当の意味での責任はなく、やめようと思えばいつでもやめられるという逃げ道がある。

 こんなに都合良く楽しいことがあるだろうか。だからその場所を失いたくないのだ。失ったら毎週土日、何を楽しみに生きていけば良いのかと途方に暮れることが目に見えているからだ。
 
 大人はみなさびしい。
 
 そして、そのさびしさを埋める方法の一つとして「少年野球」を見つけてしまった人たちがいる。
 その人たちに「違う趣味を見つけてください」と言っても難しい。ゴルフも良いがお金がかかる。ひとりで黙々とガーデニングなんて性に合わないし、地域の活動はゲーム性がなくてつまらない。そして自分自身が草野球をやるほどの気力と体力はもうない。

 だから子どもを動かして楽しみ、青少年の育成という隠れ蓑の背後で自分の寂しさを埋めている。勝つか負けるかという健康的なギャンブルに熱中しつまらない日常から逃避している。
 
そういう人たちにとっては「自分たちが楽しいこと」が最優先事項になる。余計な改革などされたくない。正論で論破されようが構わない。好き勝手やるための居場所なのに本能に逆らうことなどしたくない。 
 
 そしてそのコミュニティでは、一見反目し合っているような関係でも実はかばい合っている。普段は互いの悪口を言うくせに、いざコミュニティ全体が攻撃されそうになると結託して守りに入る。新しい世代に本当の目的をつつかれ、暴かれ、さらされようものなら激高して対抗する。「俺たちの居場所だからお前が出て行け」と。それは、そこに居場所を求めているという一点において「仲間」だからだ。

 少年野球の問題を根本的に解決するには、大人たちの抱えるさびしさをどう埋めるか、社会問題のひとつとして捉えなければならないのかもしれない。

 

 
 

 
 

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