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尾張徳川家初代藩主「徳川義直」

徳川 義直(とくがわ よしなお)は、江戸時代初期の大名。徳川家康の九男。尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始祖である。

父は江戸幕府初代征夷大将軍・徳川家康、母は家康の側室・相応院「お亀の方」。正室は浅野幸長の娘・春姫。春姫との仲は良好だったが子供が産まれず、後に側室2人を迎えている。

一人目は津田信益の娘・お佐井の方(貞正院)、のちに京姫が生まれる。

二人目は、お尉の方(おじょうのかた)(歓喜院)。のちに二代藩主「徳川光友」を生む。お尉の方の菩提寺は大森寺(だいしんじ)。

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幼名は五郎太丸。諱は義知(よしとも)、義利(よしとし)、義俊(読み同じ)と名乗った後、元和7年(1621年)に義直に改名している。

慶長11年(1606年)に元服する。翌慶長12年(1607年)4月26日、死去した兄の松平忠吉の遺領を継いで尾張国清洲藩主になる。家康は、甲信及び東海道の要として重要な名古屋に、天下普請として名古屋城を築いて根拠地とし清洲から移した。平岩親吉ら家臣団も尾張へ移り、附家老として尾張犬山城主(10万石)となり尾勢支配を主導した。義直自身は家康死後の元和2年(1616年)に尾張へ入国する。長じてからは藩政を自ら行ない、灌漑用水の整備、新田開発などを積極的に行なって米の増産に努めた。そのほかにも検地による税制改革などで年貢収納を確立した。

領内では学問を好んで儒教を奨励し、孔子堂の建立や城内の名古屋東照宮の建築を進めた。また、家康の形見分けで受け継いだ「駿河御譲り本」に自身で収集した書誌を合わせ蓬左文庫を創設し、「決して門外不出にすべからず」と現在の図書館の走りとなる文庫とした。歴史書『類聚日本紀』も著している。日本武術も好み、柳生利厳から新陰流兵法の相伝を受けている。

附家老の成瀬正虎は初代成瀬正成の長男、同じく附家老の竹腰正信は義直の異父兄である。なお、義直の墓は愛知県瀬戸市定光寺町の應夢山定光寺にある。極位極官は従二位・権大納言、諡号は源敬公(二品前亜相尾陽侯源敬公)。

定光寺の源敬公廟。

源敬公3

菩提寺「建中寺」。

建中寺1

生誕 慶長5年11月28日(1601年)

死没 慶安3年5月7日(1650年)

正室:浅野幸長の娘・春姫(高原院)

側室のち継室:津田信益の娘・お佐井の方(貞正院)

側室:お尉の方(おじょうのかた)(歓喜院)

子:光義(光友)、京姫(広幡忠幸室)


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