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尾張藩11代藩主「徳川斉温」

徳川 斉温(とくがわ なりはる)は、尾張藩11代藩主。官位は従二位・権大納言。12代将軍・徳川家慶は異母兄。13代将軍・徳川家定、14代将軍・徳川家茂の叔父にあたる。

尾張藩主と言っても、35歳の斉朝が隠居し、9歳で家督を相続するって、どういう事?21歳で死去。これでは、藩主として何もできない。しかも、名古屋に一度も来ていない。

11代将軍・徳川家斉の十九男として誕生した。母は側室・お瑠璃の方(青蓮院)。幼名は直七郎。

文政5年(1822年)6月13日、従兄にあたる徳川斉朝の養子になった。文政10年(1827年)8月15日、斉朝の隠居を受け、9歳で家督を相続した。

倹約令を出して尾張藩の財政の建て直しなどに尽力し、凶作に苦しんだ領民に救恤米を施したといわれる。しかし、天保7年(1836年)に福君の入輿の際に華美な行列を行ったことや、天保9年(1838年)に江戸城西の丸再建に際して9万両と木曾檜を献上したことなどにより、財政が更に悪化した。また、無類の鳩好きで、江戸藩邸に数百匹の鳩を飼育し、全ての鳩に名前をつけており、世話役の藩士は苦しみ藩費も浪費した。餌代を誤魔化して不正を働く家臣もいた。侍読の石川魯庵は斉温を諌め、物に執着して志を失う義を申し立てたところ、斉温は即座に鳩を解き放ったという。斉温には諫言を聞き入れる素直さがあり、また家臣と共に講義を聞くほど学問好きであった。

病弱の故をもって江戸藩邸に常住し、襲封後21歳で死去するまでの12年間、尾張藩領内に一度も入ることがなかった。

死去に際して実子がなく、異母兄の斉荘が養子となって家督を相続した。

#ゆたかさって何だろう

歴史の舞台に想いを馳せて、ぶらりと散策するひととき。

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