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尾張藩四代藩主「徳川吉通」

徳川吉通(よしみち)は、元禄2年(1689年)9月17日、徳川綱誠の十男(九男とも)として生まれる。幼名は藪太郎、後に吉郎、五郎太。字は子中、将軍徳川綱吉の一字を偏諱とし、吉通と称した。母は、絶世の美女として知られたお福の方(本寿院)である。

本寿院は、綱誠の死去後は藩主生母として藩政に介入し、尾張藩の国元の家臣、江戸藩邸の家臣から本寿院に対する憎悪が増すこととなった。本寿院は強欲な女性としても知られている。また、朝日重章の記した「鸚鵡籠中記」によると「貪淫絶倫」であり、多くの男性と性的関係にあり、そのため宝永2年(1705年)6月に幕閣から蟄居の指示があり、「幽閉された後も庭木に女性器を擦りつけていた」と書かれている。

宝永2年(1705年)6月、尾張藩の重職たちによって藩主吉通から遠ざけられ、元々松平友著が住していた屋敷に転居させられる。芝居にのめり込んだのか歌舞伎役者生島新五郎の実弟で同じく歌舞伎役者であった生島大吉との逢瀬を疑われ、江戸の四谷屋敷に幽閉させられる。この月、5代将軍徳川綱吉の実母桂昌院が逝去しており、幕府より蟄居させるようにとの命令があった。

正徳3年7月21日、実子である尾張藩主徳川吉通が四谷屋敷に来訪し饗応を受けるが、26日に吉通は急逝する。

享保9年(1714年)に名古屋に移され、御下屋敷に謹慎させられる。

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話を戻そう。

吉通は、元禄12年(1699年)、父の綱誠が48歳で急死したため、その跡を継いで11歳で藩主となった。若年のため、叔父の松平義行が藩政を補佐した。

武術、儒学、国学、神道を修め、剣術では尾張柳生新陰流9世を継承した。内政面でも停止木制度を設けて木曾の林政の改革に挑むなど、名君の評価が高かった。6代将軍徳川家宣の養嗣に擬されたことがある。

吉通は奥で夕食をとる際には、末弟の松平通春(のちの尾張藩7代藩主徳川宗春、母は宣揚院)と一緒に食事をしたほど、この異母弟を可愛がったといわれる。

正徳3年(1713年)閏5月に尾張藩士2人が吐血頓死・自害する事件が起き、その月に尾張藩御連枝梁川藩主・松平義昌が逝去した。同年7月21日、蟄居謹慎させられていた本寿院が吉通を饗応した直後に発病、同月26日に薨去した。享年25(満23歳没)。家督は幼い嫡男・五郎太が継いだ。

実母お福の方「本寿院」の存在が大きく、徳川吉通の功績はよく解らない。25歳で亡くなるが、不審死であり、亡くなる前にも不可思議な事件が起きている。

家督を継いだ息子五郎太もたった2ヵ月で亡くなるという悲劇。

これらの忌まわしい数々の出来事は、本寿院と吉通対敵対勢力(尾張藩重臣)のお家騒動の一端ではなかったか?

敵対勢力が、本寿院を陥れる為に、悪意に満ちた記録を残したと考えると辻褄が合う。

蟄居謹慎させられていた本寿院が我が子吉通を饗応した直後に吉通が発病し、5日後に亡くなるという話もおかしな話である。大事な我が子を毒殺するとは考えにくい。これも敵対勢力に嵌められたと考えると合点がいく。

#ゆたかさって何だろう

事実は、解らないが、本寿院を悪の権化という説は、疑って考えないと可愛そうすぎる。

タイトルの絵は、尾張藩江戸下屋敷・戸山荘。



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