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尾張藩書物奉行「松平君山」

君山

縁あって、松平 君山(くんざん)を調べる。

知り合いの社長が管理する長野県王滝村のキャンプ場に君山の句碑があり、これは、誰?という事になった。
隣には、もう一つ「徳川宗勝」の歌碑が並ぶ。
「徳川宗勝」は尾張徳川家第8代藩主である。(7代は徳川宗春)
木曽の地は尾張藩の領地だから、視察の折りに詠んだ句の碑であろう。

では、君山の句碑の漢詩は?

呉門東望白雲浮      
日暮仏飆佳気流      
六月雪花長不盡      
千秋岳色護神州     

意味は、

呉門(中国蘇州)の東の方を望むと白雲が流れて、
日が暮れると仏の起こすつむじ風が起こってめでたい気配が当たりに漂う。
六月の御嶽の雪は白い花のように美しく長く尽きることがない。
千年も長く続く御嶽の景色は雄大でわが国を護っているようである。

これは、木曽八景の1句であり、
瀟湘八景を元に1743年頃、尾張藩の書物奉行松平君山が木曽路を訪れた時に作らせたと言われ、近江八景(琵琶湖周辺)、金沢八景(横浜市)と共に大変著名である。

瀟湘八景は中国湖南省洞庭湖の南にあり、多くの文人墨客が詩歌や絵画の作品を残している景勝地だが、昔の人は木曽を中国の地に例え、木曽街道を2泊3日かけ山紫水明、渓谷の美そして移り変わる季節を楽しみながら旅をした。

木曽には今も脈々と往時を偲ぶことが出来る自然、史跡、伝統の技、味が残っている。特に奈良井宿、妻籠宿は生活の場をそのままに、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。


松平 君山は、江戸時代中期の尾張藩士・儒学者(古註学派)・地理学者。
名古屋にて生まれる。儒学者として知られる堀杏庵の血をひく(孫)である母の影響で学問に励んだ。
享保2年(1717年)に藩主徳川継友に拝謁を許され、同9年(1724年)に養父の死に伴って、
遺領300石の内250石を相続して馬廻組に属した。
独学で博覧強記、17歳頃から漢詩を作り、諸子百家から野史稗説に至るまで各種の蔵書を集めて、
後に宝暦6年(1756年)になって吏隠亭という書庫を作り、蔵書1200部余り、3700冊近くに及んだ。
安永8年(1779年)には書物奉行としての最大の功績であった『馬場御文庫御蔵書目録』を完成させている。
生涯に前述の書の他に儒学の注釈書などその著作は62種が伝えられ、この他にも他人のための詩や序文・跋文が多く伝わる。
特に吉見幸和・横井也有・太田東作らと親しく、岡田新川ら多くの門人を育て、その門流は「君山学派」とも称される。

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安永6年(1777年)に正室・阿艶が死去、同8年(1779年)には書物奉行としての最大の功績であった『馬場御文庫御蔵書目録』を完成させている。これを機に翌天明元年(1781年)には隠居を行うが、長年父親を公私にわたり補佐してきた嫡男の霍山も病弱を理由に同時に隠居したために孫の南山が家督を継いだ。2年後に死去した。

生涯に前述の書の他に儒学の注釈書などその著作は62種が伝えられ、この他にも他人のための詩や序文・跋文が多く伝わる。特に吉見幸和・横井也有・太田東作らと親しく、岡田新川ら多くの門人を育てて。その門流は「君山学派」とも称された。蔵書は天保年間に藩に献上されて後世に伝えられた。

墓は性高院にあるが、後に同寺が名古屋市千種区に移転されたことにより、墓地の移転・改葬が行われている。

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金山墓

前にも紹介した徳川家康の4男「松平忠吉」(性高院)の墓は、名古屋大学の西・鏡池通りにあり、マンションの裏手にある駐車場の一角にある。

その「松平忠吉」(性高院)の墓地の片隅にひっそりと君山の墓がある。

ここで疑問は、松平忠吉とは、時代が異なる君山の墓石が何故一緒なのかという事。

今度、住職に聞いてみようと思う。

#ゆたかさって何だろう

ゆっくりと散策しながら歴史に思いを馳せる幸せ。



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