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鹿2

せめて日付さえ変わらなければ。

運転士はそう考えていた。本当なら三時間前に出発するはずの駅を出たのが二十分ほど前だった。路線上の最終一駅に向けて運転士はただただ列車を走らせていた。

「問題は?」車掌が運転室に入ってきた。

「ないよ」運転士は言った。このまま順調にいったとして、終点〈クインシー〉には定刻から三時間以上遅れて到着することになる。「万事順調ってところかな」

「なら良かった」車掌はそれ以上何も言うことなく、運転室を出ていった。

事実、列車の遅延以外は順調といってよかった。列車は実に調子よく走っている。空調も問題ない。運転室は暖かい。少し腹が減った。それはまあ、我慢できないほどでもない。車窓の景色がいつもより暗いことが想定外といえば想定外か。

「23時30分」いまさらなんの意味も持たない時間を確認する。癖みたいなものだった。時刻を気にするのは職業病なのか。それなのに「明日になる前に着けばいい」と運転士は考えてもいた。

列車の遅れが問題かといわれると、それはそれで微妙なところだった。定刻通りに運行しないことは客も乗務員も織り込み済みだろうから。少なくとも、自分はそういうつもりで運転している。〈定刻通り〉はたまにあるボーナスみたいなものだ。滅多に無い代わりに見返りは大きい。人は必要以上に褒めてくれる。十回中九回の遅延はその時点で帳消しになる。

長い路線ではいつなにが起こるかわからない。起こってほしくないことほど起こってしまうものだ。線路を共同で使っている運送業者の貨物列車が線路上で立ち往生しているとか、踏切でオンボロ車が立ち往生しているとか、人が飛び込んできたりとか……はない——天国まで人を吹っ飛ばすにはスピードが足りないと思われてるのかもしれない——が、それだっていつ起こっても不思議じゃない。

長い長い線路の上ではなんだって起こり得る。鹿の襲撃でさえも。それは驚くべきことでも、有り得ないことでもないのだ。

ΨΨ

「鹿の襲撃ね」

「そうやって言うのが一番いいと思うな、俺は」

車内巡視は業務の域を超えて、もはや、車掌の癖になっていた。大きな体で細長い客車内を行き来するのは大変だろうと言うと車掌は「もう慣れた」と答える。「行ったり来たりが俺の仕事だ」と得意気に言うときもある。

車掌は見回りの最後に運転室に入ってきて、一言二言運転士と言葉を交わし、また客車へと戻っていく。だいたいが雑談だけれど、たまには仕事の話もする。

「いまさらいいんじゃないか?」いかにも気が乗らなそうな様子で車掌は言った。

「そうもいかないだろ?」運転士も同じくらい気は乗らなかったが。

「…………襲撃……か?」

「いや、襲撃ってほどの襲撃じゃなかったけどさ、鹿はちゃんといたんだぜ、目の前にさ。糞までしやがって」

「……ああ、俺も見てたよ」

鹿の尻を眺めながら運転士と車掌は話し合った。遅延が珍しくないとはいえ、理由を会社に報告しないわけにもいかない。

「まあ、うまいこと言っといてくれよ。俺はとりあえずこのままでいくからさ」

「……ああ」

「本当のこと言うしかないだろうよ。いくら嘘っぽくてもさ」

「……ああ。鹿の襲撃か……」車掌は運転室を出ていった。首をしきりに捻りながら。

「わかるよ。肩がこるんだろ?」運転士は車掌の背中に向かって言った。

車掌は振り返りもせず中指を立てた。

運転士はへへっと笑って線路の方へ視線を戻した。長い直線の遙か先に次の駅が、オレンジ色の照明の中で、蜃気楼のようにぼうっと浮かんで見えた。

運転士はブレーキハンドルに手をかけた。

ΨΨ

周囲はもうこれ以上暗くなりようもない。左を見れば線路と並行して伸びる高速道路がある。車は少ない。反対を向くとそこは何面も連なるだだっ広い農場。どちらを見ても明かりはぽつぽつとしかない。

ヘッドライトは黃色がかった光で前方を照らす。暗闇を少しずつ削り取りながら列車は進む。

運転士にとっては何度も往復した路線だ。暗いとか明るいとか、そんなこと、とっくに考えるのを止めた。前だけを見ていればそれでどうにかなる。できることは〈進む〉か〈止まる〉かの二つに一つしかない。

〈追いかける〉という選択肢ができたのがこの日の夕方のことだった。どきもしなければ逃げもしない鹿のうしろについて列車を徐行させたことは、これまでにない経験だった。

ΨΨ

冷たい空気が首筋を撫でていった。それで車掌が運転室に入ってきたことに気がついた。

「なんだよ。暇なのか?」運転士は前方に視線を置いたままで車掌に声をかけた。

「行ったり来たりが俺の仕事だよ」

「それが俺たちの仕事だよ」

「ようやく到着するか」

「ああ。ほぼ三時間遅れてるな。昼間のことを考えれば、よくやったほうだろ」

「鹿の襲撃か」

「なあ、なんて報告したんだよ?」

「鹿の襲撃って」

「よくそんなこと言えたよな」

「他にどう言えと?」

「へへっ、鹿の襲撃か」

「鹿の襲撃だ」

ΨΨ

減速を指示する鉄道標識が見えた。線路は緩やかにカーブを描いて終点〈クインシー〉へと列車を導く。煌々と輝くホームセンターの駐車場の照明が人々を迎え入れる。

「いま何時?」

「明日のちょっと前くらいだな」

「まだ今日か」

「まだ今日だよ」

ΨΨ

車両基地に列車を入れたときには日付はとっくに変わっていた。運転士と車掌は深夜営業のダイナーでパンケーキを食べてコーヒーを三杯ずつ飲んだ。宿舎に帰るとシャワーも浴びずにベッドに入った。

その後二人は鹿の夢を見たけれど、起きたときには忘れていた。


ΨΨΨΨΨΨΨΨ



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