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あっぱもん。

金魚注意報


どうも。

魚拓蒐集家のヤニカスです。

幼い頃に見た気がする『きんぎょ注意報』、
何年放送か見てみたら恐ろしく古かった。

え…知らんかった…

時代を超えて愛される作品は美しいですね。
(私は8億歳)

ていうかさ…

益魚儀(まなぎ)可愛すぎん?

 
アッ…


【‼️ネタバレ注意報発令中‼️】


でございます。


さーせん。


なんかやほおで特集されてて可愛い


何気にハーフアップなんですよね。
🔻【‼️アニメ勢ネタバレ超絶注意‼️🔻


あー…サムネじゃ画像出ねえか…

アッ…ネタバレなるから出なくてもいいのか。

そうかそうか(笑)
油断してたよ(笑)
出なくてよかったんだよ(笑)

多分今月中には出るかなー。

いやくそ楽しみなんだが。

多分来週は普通に半端な天狗回だと思うんで、
(チラ出はするだろうけど)

いいとこ今月中に出ればいいかなあ…

でも漫画では描ききれなかったところを
いかに描き切るかに、
UFOさんの情熱が爆血しとるからな。

なんかこう、うまく言えんのじゃけど、

週刊の漫画だと忙し過ぎて、
どうしても作家さんの画力が
半減してしまいがちなんですよ。

漫画の方が絵を描きやすい方は
当然いてるとは思うねんけど、
(実際画家と言いたいくらいの画力の人が
体壊してまで漫画描いてるの珍しくない)

わしの分析だと、

ワニさんは確かに
ストーリーテラーとしての
技量が爆血しとるけど、

キャラクターデザイナーとしての
センスも爆血してるんですよね。

だから多分、

『1週間かけて静止画描いてください』

って言ったら、

相当のクオリティのものを
ぶち叩き出してくる可能性が
爆血してるんですよね。

何が言いたいのかというと、
(本題になかなか触れないの定期)

ワニさんの脳内でのみ完成していたであろう
キャラクターイメージを、

アニメでは本気で再現しにかかってきてるので、

『まなぴょんの本気』のデザインを
どう再現してくるのかが楽しみで仕方がない。

わかるかなあ(言い方うぜえ)。

話を戻すけど、

えっ…ガレキあんの?

って感じよね(⬆︎の埋め込み)

しかも塗装済み?(自分不器用なもんで)

最高かよ(値下げしても17,000円超)。

買えるとは言ってない。

ハーフアップ結うの、
何気に難しいんですよね。

小生かつてくそロン毛だったんですけど、
(シンプルに収入食費にほぼ全振りして
一年で35kg分もの資源を体に蓄積してたから
食うのに忙しくて床屋に行く金と暇がなかった
はい言い訳ですごめんなさい)

顔に掛かる頭髪がやたらと邪魔で、

そんな時はハーフアップが
最も都合がいいんですよ。

でもいかんせん女子ほど
丁寧に結べないもので。

ヘアアレンジってなんなんすかね。

と思ったらこんな動画見つけました

⬇︎


やっぱプロは少々違う
ってことでよろしいか。

前回の記事を書いてから、

『私は本当に推しを描けないんか?』

と思い、

脳内で割と真剣に紙に向かってみたんですよ。

したらやっぱり描けんかったとですよ。

でもなんかチコトコで
おんもしろい動画見つけた。
(rinsu3150様作)


このクオリティでぶち出されたらもう、

なんていうかもう、

御馳走様でした。

今流行りのAIイラストというやつか?

知らんけど、

もしそうであったとしても、
上の作品は私好みなので大好きですはい。

好きすぎて肛門から
うんこが爆血しそうですはい。
(汚ねえから帰ってもろて)

っていうか…

最近のインスタの仕様に
ついていけないんだが…
どうなっとるん?

なんだろう…インスタをやる意味が
ほぼなくなっているというか…

インスタで電話のやり取りができるというが…

そんなもんをSNSでやってどうするんだ?

SNSってなんだ?

私のアカウントの問題なんだろうか?

よくわからん…
元々超絶アナログ人間だから、
(携帯も最近持ち始めた)

SNSの類はアナログ要素がなければ
何もわからんのじゃ…

まあいっか。

とりあえず緻密な刃に関しては、
私はまなぴょん一押し(禰󠄀豆子も好きよ)なんで、

まなちゃんが出てくるまでは
とりあえずお預け食らっときます。

あ〜それでも今週(14日)のチラ出、
それでも嬉しかったなあ…




ミカンの子


サムネの画像、

そろそろ完成しそうな落書きを
素材に使ったけど、

完成させる胆力尽きたんで、
未完成のまま投下することにした。

なんか顔面茶色くない?


キッズの頃、

大友克洋さんのご子息のボールペン画に憧れて、
ラバー80で絵を描きまくった時期があった。

🔻ご購入はこちら


当時『白痴ランド』というWEBサイトを
運営なさっていたんだが、

気がついたらなくなってた。
私の気のせいだろうか。
探し不足だろうか。

大友昇平さんというお名前なので、
お見知り置きいただけると
一ファンとして泣いて喜びます。

直接的な接点は1nmもありませんが、
勝手に師匠とお呼びしております。

オカンがAKIRAの大フアンで、
うちに単行本(でかいやつ)があったんですよ。

そんなんされたら影響受けるじゃないですか。

だからキッズの頃、

お年玉か小遣いかバイト代かのどれかで
こちらの画集を買ったところ、

死ぬほど怒られたんですよね。

意味わかんない。

親子で画力爆血してるとかどういうこと?

私ももうすっかり鬼滅キッズですか?
(大友親子と鬼滅まじ関係無え)

8億歳の莫大なエケチェンです。はい。

全然関係ないけど、

うちのオカンもアマチュアだったけど
画力爆血してましたね。
原画残ってないんほんまに勿体無い。

わりかし仲悪かったけどね。

まあいいや、
あの世でよろしくやっててくれたら私は嬉しい。



唐突にポリコレについて語り出す奴


そうそう、

実はワタクシ結構前から、

ポリコレについて
自分なりに考察してみたかったんですよ。

でもなかなか話がまとまんなくて、
ずいぶん先延ばしにしてしまった。
(三万文字書いてもまだまとまらんかった)

今回もクソ長くなってまうかもしれませんけど、

まとめるのが下手なりに
なんとかまとめてみますんで、
よろしければお付き合いください。

ただ一応念のために注釈しておきますと、

物事を無駄なほど
深く考えすぎるのが趣味の人間による
単なる個人的な考察にすぎませんので、

あんまり深く捉えないで頂けると助かります。

ただ言いたいことを好きなだけ吐いてるんで、

一部の方にとっては、

【‼️閲覧注意‼️】かもわかりません。

ぬるりとよろしくお願いします。




①『ポリコレ』とは。


正式呼称は『ポリティカル・コレクトレス』、
直訳すると『政治的正しさ』だそうです。

捉え方としては、
以下のサイトで長々と語られている
認識が一般的みたいなんですが…


こちらのサイトの解説だけを参考にすると、

『政治的正しさ』以上の意味が付与され、

まるで、

『民衆の民衆による民衆のための
新しい価値観の構築を目指すための基準』

みたいなことが言われてますよね。

でも私は、

上記サイトの解説はあくまでも建前で、
直訳まんま解釈するのが正しい。

…と捉えています。

『政治』ってなんやねんって話だけど、

単純に捉えると、

『政治』はとてもけったいなもんで、

民衆にとっては
お世辞にもそれほど身近なものとは
言えませんよね。

議員を選ぶことは大抵の先進国では
認められている体ですが、

法案や条例の可決などに
直接口を出すことはできず、

それらで定められたことに
違反することもまたできないので、

なんやかんや
『政治は民衆にとって身近ではない』
とわしは捉えとります。

だから、

『政治を執り行う側にとっての正しさ』

というニュアンスで解釈しているんですがね。

では、

『政治を執り行う側にとっての
正しさとはなんやねん』

って話なんですけど、

これまたシンプルに、

『政治を行う者の都合を優先した
価値観における正しさ』

というニュアンスで捉えています。

政治を行う者の都合は、
必ずしも民衆の都合に即していません。

一応誤解なきよう注釈しておくと、

それを良し悪しで判断するつもりは
微塵もありません。

ただ『なんだかんだそういうもんだよね』
っていう、

政治を執り行わない者の目線で
”相手”を同じ人間として捉えた場合、

どうしても自分の都合を優先するのが
人間という生き物のサガなので、

『政治は民衆主体であってほしい』
という民衆目線の希望的観測がいかにあれど、

政治は実質、民衆の営みとは
切り離されたものでもあることだし、

私たち民衆とは距離を置いた地点で
『政治を執り行う人』にしか
わからない価値観が存在するであろう。

つまりその上での『政治的正しさ』とは、

私たち民衆にとっての正しさとは
また異なるものである可能性を
否定できないのではないか?

…みたいなことを
考えた上での解釈となります。

ちなみになぜ私が今回、
藪から棒に『ポリコレ』について
語りたくなったのかと申しますと…

たまたま、

ポリコレ過剰配慮で改悪されているとされる
娯楽メディアの数々に嘆き散らかしている
方々のご意見を耳にする機会があったからです。

一応注釈しておくと、

『ポリコレ』を『民衆にとっての正しさ』
と解釈するならば、

ポリコレに過剰配慮された作品が、
大衆ウケしないものに改悪されていると
嘆く人々の気持ちは分からんでもありません。

ですが、

そもそも『ポリコレ』が
大衆のためのものではなく、

”建前”とは全く異なる理由で
発信する側が『ポリコレ配慮している』
と捉えるなら、

ポリコレ配慮の結果が
大衆目線のものではなくなることにも
頷けるのです。



②発信者がポリコレ配慮する意味


では『ポリコレ』が
『政治を行う側にとっての正しさ』
と捉えた上で、

一体どんな意味があるのか…
それについての考察を行いたいと思います。

私は主に二つの意味があると捉えてます。

------------------------------------------------------------
①民衆の創作活動を制限する理由作り
 個人の発信スタンスは
 大手の影響を受ける傾向にあるため、
 (人は長いものに巻かれ易いから)
 『ポリコレ』に配慮する
 大手娯楽メディアが増えることで、
 表現そのものの可能性は自ずと狭まり、
 大衆の自由な表現は抑圧されかねない。
 そしてそれこそがポリコレ過剰配慮を
 大手娯楽メディア発信媒体が行う
 最大の理由なのではないかと勝手に考察。

②ポリコレ配慮対象への嫌悪感の増大
 
ポリコレは一般的に『配慮対象』への
 気遣いを目的としているとされるが、
 配慮の結果があまりにもお粗末で唐突で
 ご都合主義的な場合が多いため、
 受信者は『ポリコレ配慮シーン』
 に関わったキャラクターや、
 配役への嫌悪感を増大させる傾向にある。
 それにより配慮対象となるはずの
 マイノリティへの不満が募る可能性がある。
------------------------------------------------------------

②についてはちょっと分かりにくいので、
さらなる解説を挟みます。

まずわしが②の意味を見出した理由は、

ポリコレ過剰配慮が話題となっている
作品に対して怒りを募らせる
受信者各位の意見の数々に目を通す中で、

『ポリコレ配慮対象』への苛立ちが
多くの受信者達のコメントから
窺えたことが最大の理由です。

例えば今回のネタに関連する話題において、

『美女と野獣』の舞台作品で、
主人公のベル役をふくよかな黒人女性が
担当したことに非難が上がりまくっていたのが
印象的だったんですが、

どんなに丁寧な言葉を
選んでいるつもりであっても、

『デブな黒人女はすっこんどれ』
っていう本音がどうしても透けて見えている。

確かに美女と野獣は元々フランスの昔話で、
主人公のベルも白人かもしれんけど、

フランスには数百年前から
黒人の人々が暮らしていたし、

何よりもどうせフィクションなんだし、
太めの黒人女性が役を担当したっていいじゃん?
って私は思うから。

まあ…価値観が違うってことに
なっちゃいますがね。

ただ元々の物語の設定(原案)ごと
『主人公はふくよかな黒人女性だった』と
するのは物語の捏造になるし、

それを許容してしまっては、
原案を作った人に敬意を払うということには
ならなくなる可能性が高いので
よしたほうがいいと思うんですが、
(本人に直接窺いを立てることは
もうできないので、可能性が高いという
言い方にとどめた)

一つの作品には無限の可能性が
あっていいと思う
ので、

『異説:美女と野獣』的なニュアンスで
原案をあくまでも尊重した上で、

『もしベルがふくよかな黒人女性だったら』
っていう設定で別の物語を作るのは
全然ありだと思ってしまうんですよね。

例えばなんですけど、

『かぐや姫』って日本の昔話じゃないですか。

これの主人公が元々中国人や朝鮮人だった
という話になるのは違うと思うけど、

例えば舞台や映画を作るってなった時に、
中国人や朝鮮人の役者がかぐや姫を演じても
何も問題はないと私は思うんですよ。

また物語の可能性を広げるという意味で、

例えばかぐや姫を月から来た
宇宙人とするのではなく、

実は朝鮮から来た移民の娘さんだった
っていう話にするのは
全然ない話じゃないと思うんですよ。

ただあくまでも原案は
そういう設定にはなってないので、

『異説:かぐや姫』みたいな話に
して欲しいとは思いますけどね。

私はこうした価値観を有しているがゆえに、

元々白人のキャラが有色人種になったり、

唐突に同性愛の描写が描かれることにも
違和感を覚えるたちではありませんので、

美女と野獣の配役や、
種々のポリコレ過剰配慮に
異議を申し立てた人々の苛立ちには
完全には共感できていません。

なのでそれを踏まえた上で
お聞きいただければと思うんですが、

『ポリコレ過剰配慮いい加減にしろ』
と嘆く人々の意識の中には、

大なり小なりマイノリティへの理解を
拒絶する様子が窺えるんですよ。

もちろんどの程度の速度で
それらを理解できるようになるのかには
当然ながら個人差があるし、
私はその個人差を尊重しています。

なので、決して『だから悪い』と
言いたいわけではないんですね。

そこを踏まえた上で
お聞きいただきたいのですが…

彼らが『マイノリティへの理解を拒絶する』
には色々と理由があるのは理解しています。

例えば、

『恋愛は男女間で行われるべきだ』
と思うのが自然な方にとっては
同性愛は受け入れ難いでしょうし、

心の性別や性そのものの捉え方が
肉体の性別に準拠していて然るべきだと
捉えるのが自然な人にとっては、

例えば身も心も男性である人が、
趣味で女装するのも理解できないでしょうし、

またその逆も理解できないと思うんですよ。

また体は男性だけど心は女性であるとか、
その逆のパターンもよくわかんないのは
むしろ当然だと思うんですよね。

あと私が耳にしたことがある説としては、
白人文化圏の道徳の基準である『聖書』では
異性装を固く禁じてきたが故に、

『心が女性』である男性が女装したり、
『心が男性』である女性が男装するのは
理解・許容できるけど、

日本で目立つ、
性自認が肉体の性別に準拠しているのに
異性装を楽しむという価値観には
理解を示せないと言うのもわかります。

だからそれを無理に変えろと
言うつもりは微塵もないんですよ。

ただそういうタイプの人にとっては、
(いわゆるマジョリティですね)

そもそも受け入れ難い価値観を指して
『マイノリティ』と呼んでいるのだから、

そもそもマイノリティのあり方が
受け入れ易いわけがないとは思うんですよね。

それはマジョリティの人々が狭量だ
と言いたいのではなくて、

例えば私の性自認は無性なんですが、

そんな私にとっては、

私を男性か女性のどちらかに
区分けされることは正直辛いです。

どちらでもない、
あるいはどちらでもある
という扱いをしてもらった方が
居心地がいいことは間違いない。

それと全く同様に、
男は男、女は女という捉え方が
自然な人にとっては、

性別を意識しないのが心地よいという
私の在り方を受け入れるのは辛いだろう…
ということが理解できるんですね。

そういう意味合いで、

マイノリティにとっての居心地の良さを
マジョリティに対し
唐突に突きつけるということは、
『マジョリティの心に土足で踏み入る行為』
とも言えるんですよ。

(多くの大手メディアが
ポリコレ配慮と称して行っていること)

なぜかったら、

ポリコレ配慮と称して
槍玉に挙げられる多くの価値観は、

長らく一般常識の外側の事柄として
排除の対象とされることが
当たり前だったからです。

つまりそれらの価値観を
『マジョリティの感覚』を
無視した上で表現されてしまっては、

マジョリティに対し、
マイノリティへの理解を深めてもらうどころか、

『俺私の心に土足で踏み入りやがった』
というクソ悪い印象を与えてしまいかねない。

つまりマジョリティ達の
ポリコレ過剰配慮への批判が長じて
マイノリティへの嫌悪感を
高めることに繋がるのは、
いわば道理とも言えるんですよ。

だからそれそのものが悪いことだと
言いたいわけではないんですよね。

異なる価値観の融合に何が必要なのかを
大手メディアが把握している様子が
窺えないことが最大の問題
なんですが、

私としては、ここにも疑問を
抱かざるを得ないんですよね。

ほとんどの大手メディアは
情報収集しやすい環境下にあるので、

大衆ウケするポリコレ配慮をやろうと思えば
いくらでもできる筈だからです。

だからそれでも

『大衆ウケするポリコレ配慮ができていない』

…ということは、

むしろ意図的にやっていないのではないか?

と思ってしまうわけです。

ではそんな行為に何の意味があるのか?

っていう話なんですが…

参考になるのは、

『マジョリティに配慮しない』
ポリコレ配慮が、

マジョリティの意識に
どのような影響を与えているかです。

答えは先にも述べましたが、
なんやかんやマイノリティへの理解を
拒絶する動きを強めている。

そんなことをして誰が得するんでしょうか。

無論マイノリティもマジョリティも、
どちらも得していません。

ということはですよ。

大手メディアと、
彼らに資金提供している人々が
マイノリティをマイノリティのまま
扱い続けたがっているから、

マジョリティの批判感を
煽る手法でのポリコレ配慮を、
大衆の意見を無視しながら繰り返し、

それが結果として
マイノリティの地位向上にも貢献していない
ということに繋がっとんのでは?

と思ったわけです。

つまり『ポリコレ配慮』はそもそも
マイノリティを守るためのものではなく、

マイノリティをマイノリティとして
扱い続けることを目的として、

マジョリティを煽るためのものなんではないか?
と解釈したんですね。

大衆の意識がマイノリティを
許容するようになったことから
ポリコレ配慮は始まりましたが、

それらはほぼ一様に受信者達の意見を
必ずしも取り入れているわけではない。

マイノリティの過激派の意見なら
取り入れているかに見えますが、

マイノリティ過激派の意見は、
そもそもマジョリティを無視し、
逆に排除するかのような
偏ったものばかりなので、

それは喧嘩の火種を生むだけで
異なる価値観の融合には役立ちません。

つまり、

マイノリティ過激派達の意見が
マイノリティの地位向上に役立つとは
お世辞にも言えんわけです。

だからそれはそもそも
『本物のマイノリティの意見』なのか?
と疑ってもいます。

なお私が目にした範囲では、

『ポリコレ過剰配慮モノ』として
バッシングを受けている作品の数々に
寄せられたマジョリティ達の
『うんざりコメント』のほとんどが、

そのような作品を世に出した
発信者に対する怒りばかりではなく、

『配慮対象となったキャラクター』や、

『そのキャラクターを演じた役者』
への怒りや苛立ちも
少なからずあったことから、

『俺私の心にマイノリティは
土足で踏み込んできやがる』

という嫌悪感が受信者の中に含まれる
マジョリティ達の心に生じ、

彼らの理性を欠かせているのではないか?
と思ったんですよね。

穿ちすぎかもしれんけど。

私の推測では、

大手メディアは、世間の流れが
『マイノリティへの理解を深める方向』に
向かっていることを
間違いなく察知してるんですよ。

現にSNSを管理管轄している業者と、
大手メディアに資金提供している
業者には接点があります。

つまり、

大手メディアと彼らに資金提供ができる人々は、
SNSなどを通して人々の意識の変化を
正確に把握する能力を十分に持っている。

その上でわざわざ大衆の意見を
混ぜっ返すような娯楽メディアを、

大衆の意見を無視してまでも
金をかけて出させているのですから、

むしろそれは意図的なのではないかと
思ってしまったんですよね。



③多くのマジョリティが抱く『本音』


前項では、娯楽メディアを発信する側の
スタンスについて述べてきましたが、

ここでは大衆の一般的な意見というか、
本音が何であるのかについて
触れていきたいと思います。

いわゆる『マジョリティ(多数派)』
とされる人々の本音ですね。

私が今回このネタに触れようと
思ったきっかけの一つに、

マジョリティ達が、
殊の外感情的になっているのが気になった
というのが挙げられるんですが、

なぜ彼らがそうまでして
ポリコレ過剰配慮に感情的になる
必要があるのかを、

個人的に整理したいと思ったんですよ。

おそらく彼らは、腹の底では、

白人キャラは白人だからこそ
美しいと言いたいし、

主人公の同性愛展開なんか
見たくないと思っているし、

痩せていて目鼻立ちの整った男女を
『美形』として捉えたいという思いが
真っ先に来るんですよ。

なぜならば、

ラテン系の美女が主人公に配役されている
白雪姫の実写版に関して、

役者への非難がそれほど目立たないどころか
むしろ肯定的な意見が目立つのに対し、

美しい黒人女性がアリエル役を務める
『リトルマーメイド』の実写版では、

役者さんを肯定する意見が
面白いほど目立たなかったからです。

エッ…この人かてくっそ美人やんけ…なんで?
って率直に思いましたね。はい。

ラテン系の美しいとされる人々には
大抵白人の血が混じっています。

だから白人を美しいと思う人のツボには
ハマりやすい印象がありますが、
いかがですか。

話を戻すと、

だからこそ、

マジョリティに対して唐突に
無遠慮なポリコレ配慮をぶち込まれると、

発信者に対する怒りばかりか、
配慮対象となったマイノリティにも
少なからず苛立ちを隠せない結果に
なってしまっているのではないかと思います。

ただそれを自身のSNSなどで発信してしまえば、

マイノリティが沸き立つのを
一ユーザーである自分までをも
受け止めなければならない、
(自分もポリコレ配慮せねばならない)

それがめんどくさくてたまらないから
本音をぶちまけられない、

だから『せめて大手メディアは
過剰なポリコレ配慮をやめて欲しい』
と言いたいんでしょうね。

つまり彼らの本音の本音は、

『マジョリティの意見を
どうして優先してくれないんだ』

の一択なんではないかと。

ただそれを面と向かって言ってしまえば、
自分が非難の的になるかもしれないので、
それが怖いのでしょうね。

でも自分はユーザーとして
娯楽メディアを消費する立場で居続けたい。

そのためにも、

マイノリティの意見ばかりが
優先されているかのように見える
ポリコレ配慮を許すわけにはいかない。

申し訳ないけど、私には
責任転嫁にしか思えないんですけどね。

私はどちらかといえば
『生み出す側』の意見に賛同し易い
生き方をしているので、

一ユーザーとして娯楽メディアを楽しみたい
という気持ちはもちろんありますが、

人の作品にそこまで文句を言うのなら、
自分で作れと言いたくなります。

…乱暴な言い方に聞こえたら恐縮なんですが、
私は自分の言葉を自分の発信の場所で
制限したくないので、

はっきり言わしてもらいました。

いずれにせよ私が勝手に
そう思ってるだけなんで、
適当に流していただいても構いません。

さらに申し上げるなら、
SNSの”個人的な発信”も
発信していることには変わりがないので、

自分の言葉が多くの受信者達に
どのような影響を与えるのかに
配慮した方が良いとも思うんですがね。
(ここでいう配慮とは、
受信者に媚を売るということではなく、
例え叩かれても自分の言葉を言えるか否か
という意味です)

別に、

『俺は白人美女を
ヒロインとして見たいんじゃ!』

と言いたいならそれはそれでいいと思うし、

太った黒人女優が
美女と野獣のベル役をやるなんて
キャライメージ崩壊にも程がある
と言いたいなら、

そうはっきりと言えばいいんですよ。

何で言えないんでしょうね。

私は”それが自分の本心”なら、

『ベルは白人なんだから白人がやれよ!
しかも痩せてる女のキャラでこっちは
十二分に慣れ親しんでんだから、
そんなユーザーの思いを尊重しろよ!』

って言いますね。

だってそれを言いたいんですよね?

本心ではそれを言いたいんですよね?

だったら言った方が良くないですか?

誰に叩かれても
叩く人とは意見が違うだけなのに、

自分とは意見が違う人の
バッシングにいちいち合わせてたら、

自分の意見がどんどん潰れていく
じゃないですか。

私は叩かれるより
そっちの方がもっと辛いんで、

自分の本心の方を
より全面に押し出しますね。

辛いのも痛いのも嫌なんで、
自分が辛く痛くない方を選びます。

皆さんはどちらが痛いですか?

非難を恐れて他人の意見に合わせた結果
自分の本音を潰さなければならないのと、

例え非難されてでも
自分の意見を自分で尊重できる事。

どちらが痛いですか?

私は非難を恐れて
自分の意見を潰す方が痛いので嫌です。

なので、

『自分の意見を周囲に過剰配慮して潰す』
ことから逃げます。




④ポリコレ過剰配慮でマジョリティを煽る意味


わたくしは、

今の社会は『マジョリティの量産』を
一つの目的として作られてきた節が
あるのではないか?

と勝手に思ってるんですが…

結果として”とある意見”が
多数派になったというよりも、

そもそも大衆の意見がそっちに寄るように
仕向けられてきた節があると思うんですよ。

念の為に注釈しておくと、
陰謀論を語るつもりはありません。

まあ陰謀が実在している以上、
社会的なムーブメントの逆張りをした時点で
ある程度陰謀論と結びついてしまうのは
仕方ないんですけどね。

なぜならば、

性自認を問わず異性装を好む人は
昔からどこにでもいただろうし、
同性愛者もどこにでもいたはずだから。
(古代の支配者には、男娼を公的に
侍らせていたという実績がある)

ですが、どういうわけか彼らは
『社会的に』受け入れられることはなかった。

その背景を私にできる範囲で
探って見たところ、

現代のマイノリティを法的に迫害してきた
実績を持つ文化圏は多く存在する
んですよね。

その理由は、

『女性を家庭に縛り付ける』ことで
子供の死亡率の高さを
社会的に補完し易かったとか、

自分たちの価値観を優先した社会を作るには
身体的特徴で人を選り分けた方がやり易く、

自分たちの文化の中枢には
自分たちとは身体的特徴の異なる人々を
入れないように意図的に動いてきたから
だろうと思うので、

ある意味では仕方がなかったとも思います。

(ある研究によれば
白人は目で見た印象で物事を
判断する傾向が強いらしい)

念の為に注釈しておくと、

どのように文化を築くのかは
当事者達の自由だと思うんで、

例えば白人が自分たちの文化を築く上で
有色人種を排除したいと思って
そうしてきたんなら、

それは一つの事実として
受け止めておけばいいだけのことで、

良し悪しで判断できるものではない
と思うんですよ。

むしろ良し悪しで判断した上で、
『白人の行動を正当化する』ために
白人が有色人種を迫害してきた事実を
捻じ曲げることの方が問題だと思う。


だから、一旦白人達が大々的に行なってきた
有色人種の迫害行動は事実として認めて、
素直に『ごめんなさい』すればいいだけだ

…と思うんですけどね。

どうも自分の過ちを認めることを
ことさらに恐れる人の方が多いためか、
それはなかなかうまくはいきません。

私は嘘やメッキが剥がれた後の
始末のほうがめんどくさいし怖いんで、
自己正当化はしませんが。

いやまじで自分の間違いは
素直に認めたほうが遥かに楽ですよ。


またヒートアップしてきましたね。
サーセン。

話を戻しますが、

今後受け入れられやすい価値観としては、

国境・文化の違い・肌の色などを
問わない方向に、

より一層人々の意識が向かっていくことが
予測されるので、

『肌の色や文化の違いで人を選り分けずに、
皆で手を取り合おうよ』

というスタンスで文化を築いて行った方が
万人のためになると思います。

なお私は自分が有色人種だからって
わけではないんですが、

『人々の違いの全てをお互いが尊重し合える社会』
を理想としているので、

文化の違いを違いとして受け入れるための区別は
むしろあっていいと思ってます。

区別や差別を蔑視と結びつけるのがおかしい
のであって、

例えば女性は肉体的特徴から
男性よりも力仕事が苦手な傾向にあるのに対し、
男性は出産せず、生理もありません。

つまり性別の違いにより
社会においてできることが異なるため、
その違いを社会的にも認識した上で、

男女の肉体的特徴を社会的にも重んじ、
どちらも割を食わない社会を築いたほうがいい。


また文化や習慣の違いで申せば、

イスラム教徒の方々の習慣は、
はっきり言って『そうではない』人々にとっては
馴染みにくいものですよね。

ですが、人が何から
成長に必要な物事を取り入れるかは自由なので、

イスラム教徒の方々の習慣は
どこに行っても尊重されるべきだと思います。

ですがそれを実行するためには、
『イスラム教』の方々を、
そうだとはっきり認識する必要がありますよね。

これらはれっきとした『区別・差別』ですが、

特定の何某を尊重するために、
『男性』『女性』『宗教の違い』などを
明確に認識する必要はあると思うんです。


ただ肌の色に関しては、
どシンプルに見た目の特徴の違いだけなので、
区別できるものではないと思います。

白人コミュニティで有色人種が要職に就くことも、

有色人種のコミュニティで
白人が要職に就くこともあっていいと思います。

では何が問題なのかというと、

そうした肉体的特徴や文化の違いからくる区別を
『蔑視と結びつける』ことなんですよ。


蔑視とは蔑んで見ることです。

この辺の違いを一緒くたにしている人が
多い印象が強いんですが…何でなんでしょうね。
それだけはどうしても私にはわかりません。

区別をなくしてしまえば、

男子に比べて筋肉量が10%も低い女性に
男子が得意な力仕事を同じだけさせたところで
作業の効率は上がらないし、

何より女性に負担がかかる。

また出産しない男性に
出産の痛みを分かち合わせるというのも、
そんなに意味があるようには思えません。
(そういう機械が出てるらしいけど、
なんだかなあ…と思う)

命の誕生は関わった男女両方の責任なので、
お互いの肉体の違いを踏まえて
己が責任を全うすべきだと思います。

これに関しては、ちょっと女子に
きついこと言わしてもらうけど、

出産する覚悟が無いなら
不用意に男に股を開かないのは
重要な判断ポイントだと思います。

それを嫌がる野郎なんざ、
相手の女子を大事にするつもりは
ハナから無いので、相手にする価値も無い。

サーセン。
個人的なこだわりについて言及してしまいました。

また際立った習慣の違いがある文化が融合するには、

お互いの違いを認識した上で
『尊重する』という過程が不可欠なため、
『違いを認識する』のは前提条件なんですよ。

だからこの必要な区別に対し、
どうして蔑視を結びつけるのか。

それだけがどうしても謎なんだよな。

力仕事が苦手だからって
女子が男子に劣ってるわけではないし、
子供を産まない男子が女子に劣ってるわけでもない。

あくまでもそうした性差の上に
個人の能力の違いが
個性の違いとして存在するだけで、

いずれにせよどちらかがどちらかを
蔑視する理由にはならないはずだ。

また自分たちが生まれ育った国の文化と
異なる文化圏に育った人々や、

その異なる文化が自分たちの生まれ育った国や
地域の文化よりも劣っているわけではないのに、

そうした違いがどうして『蔑視』に繋がるのか。

全然わからないんだよな。

なんでなんですか?

クソ長余談


ただ私は個人的に、

『多様性を受け入れよう』という目的を
あらかじめ定めておけば、

そのために多くの人が幸せになる道を
模索できたはずだと思っているので、
(つまりその目的意識を
はじめから持っていなかったから、
社会が多様性を認める方向に
行かなかっただけだと思ってる)

そもそも社会が『支配する側』にとって
都合よく回されてきたことは、

陰謀論を抜きにしても事実だと思うんですよね。

途中にクソ長い余談を挟んでしまったんで
なんのこっちゃって話かもしれんのですが、

つまり、

マジョリティたちの判断によって
今の社会、つまり『政治を行う側』の
居心地の良さが保たれている部分が
少なからずある

…と思うんですよね。

言い換えれば、

マイノリティが力を付け、
彼らが受け入れられていく流れに
同意しかねるのは他でもない、
『政治を行う側』ではないかと。

アタクシは勝手に思うわけです。

だからポリコレ過剰配慮により
マジョリティの心に土足で踏み入ることで、

彼らがなんやかんや
マイノリティへの嫌悪感を強めていけば、
それでうまうまできる人々がいる。

何だか気分の悪い話ですが、
なんでこんな持論を展開し出したのかというと、

先にも述べましたが、

私が目にした範囲では、
ポリコレ過剰配慮に沸いている人々の
ほとんどがマジョリティであり、

また彼らのほとんどが娯楽メディアと、
そのメディアの発信者たちへの
怒りを募らせる傍らで、

マイノリティへの理解を拒絶する動きを
確実に強めていたからです。

『そんなことはない』と
否定されるかもしれんけど、

だったらもう思い切って

『俺は白人女のケツを追いかけるのが好きだ!
金髪万歳!白人美女万歳!
ラテン美女なら白人の血が混じってるから許す!
あと体系は適正BMIこそ至高!』

って言えばいいだけの話だと思うんですよね。

私はそうは思わないんで大々的には言わんけど、
なんで彼らはいちいち本心を言わんのか…

先にも述べましたが、言うのが怖いんですよ。

言ったらマイノリティに叩かれる。

それが怖い。

しかもマジョリティの多くが、
『自分が生み出す側に回るのは難しい』と、
かなり深刻に思いこんでる。

…”それ”についてはまた長い話になるんで
別の機会にまとめますが、

『自分は生み出す側には回れない』
と思いやすいのもマジョリティの特性であり、

彼らがそうなった背景には、

マイノリティがかつて多くの文化圏において、
法的にも大々的に非難・迫害の対象
となってきたことが大きな要因として
存在するんですよね。

つまり『生み出そう』としてきた人々の中には
マイノリティが多いというか、

マイノリティの中から
『生み出そう』とする人々が出やすく、
(作家や学者にはマイノリティと
呼べる人々の人口が多かった)

彼らは湧くたびに
社会から迫害を受けるため、

------------------------------------------------------------
マイノリティの立場を取る
⬇︎
何かを生み出そうとする
⬇︎
社会から迫害を受ける(排除される)
------------------------------------------------------------

という流れがマジョリティ達の意識に刻まれて、

何かを生み出そうとすることは
マイノリティの成すことであり、

『マイノリティであることは
迫害されることである』

という負の方程式が、マジョリティ達の
意識に刻まれたのではないか?

とアタクシは勝手に考察しとるわけです。

まああの、

そもそも『マイノリティ=少数派』
『マジョリティ=多数派』という
言語の基本認識があるわけなんですが、

今更ながらこの記事では、

これらを大まかに一般常識に迎合する人と
しない人として区別しています。

日本語ってむじーな。

話を戻すと、

何かを生み出そうとするマイノリティを
社会が迫害することを通して、

『マイノリティ=忌むべきもの』
という認識を持つ人々を
大衆の中に増やしていったことが、

現在におけるポリコレ過剰配慮に
マジョリティが沸きやすいことに
繋がってると思うんです。

『少数派より多数派を重んじるべきだろう』

という本音が彼らの言葉から
滲み出ていると感じたもんですから。

それは言い換えれば、
少数派を排除しても良いと言ってる
ようなもんですよね。

ただそれを言えば少数派から叩かれ、
それに傷つくのが怖い。

なぜなら彼らの少数派を排除したいという
言葉にならない欲求は、

先祖が体験した
『少数派迫害の歴史』に即しており、

いわば防衛本能のなせる業だからなんですよ。

経験も遺伝しますから。
(語れば長いのでこれもまた別の機会に回すす)

つまりマジョリティ達の意識の土台には、
『少数派=迫害=怖い』という感覚がある。

防衛本能に即した感覚に基づき
ポリコレ過剰配慮を批判しているから、
どうあれ自分が叩かれるのが怖い。

自分の身を守るために何ができるだろう
と思いながら言葉を選ぶ。

だから自分の本音をはっきりとは言わないけど、

大手メディアには
『少数派よりも多数派を重んじろ』
という意見をそれとなくぶつける。

なぜなら相手に力があると思っているので、
自分の意見を受け入れる度量があると
感じているからではないでしょうか。

『金を落としてるのは自分達だ』
という認識もあるかもしれません。

まあいずれにせよ私は、
それこそ『奴さんの思う壺やな』と
感じてしまうんですけどね。

どうあれ穿ち過ぎかもしれませんが、

社会そのものが
マジョリティを量産するために
動いてきた節があり、

現在の大手メディアの動きも、

ポリコレ過剰配慮で
マジョリティを煽ることで、

マジョリティたちの意識が無意識下で
マイノリティ排除に向かうよう仕向け、

なんやかんやマイノリティが社会において
力を持つのを防ごうとしているのではないか…

と思ってしまうわけです。

自分を良識人だと思いたい人々は、
”それ”をはっきりとは言いません。

自分がマイノリティから叩かれるのを
恐れているのもあるだろうし、

何よりマジョリティは、
『少数派=迫害される』という
一種の強迫観念から『一般常識』を
重んじる傾向が強いので、

マイノリティよりも
人目を気にする傾向にあります。

しゃあないんですよ。
誰だって痛いのは嫌だし、怖いから。

ただのちに詳しく触れますが、

個人的に、

『本当に痛くて怖いのはどっちですか?』
とマジョリティ各位に問いたくはあります。

ものすごい複雑な話なんで、
どれもこれも練られた話だなあと
一方で感心してしまうんですがね。

少し前、陰謀論に関する興味深い話を
ふと耳にしたんですが…

一応『それを肯定する立場には立たない』
という前提の上でお話しします。

一説によれば、

現在の社会の仕組みは数百年前、
いやもっと昔にまで遡り、
地道に構築され続けてきたものだ…

という考え方があるそうです。

無論それを『正しい』と
言い切るつもりはありませんが、

今回ポリコレについて
あらゆる情報を取集するにあたり、

私はその説が浮上したのも無理からぬ話だな…
と思ってしまったんですよね。

その理由はおそらく、

私がポリコレ過剰配慮に対し
嫌悪感を抱かないタチだから
なのかもしれません。

私は学校の勉強にもニュースにも
興味を持たずに生きてきたので、

基本的に情弱だし、
自分の考え以外に信用できるものが
ないんですよ。

シンプルに自分が抱く疑問に対し
答えを提供してくれるものが
どこにもなかったので、

あらゆる物事に対し、自分なりに考え、
答えを出すしかなかった。

だから世間の人々が何かに沸いたとしても、
なぜそうなるのかを
理解できないことが間々あります。

だから私の考えが幅広く見て正しいとは
無論思っちゃいないんですが、

だからと言って他人の意見を
正しいと思う理由がないんですよね。

強いて言うなら、
親の教育にはかなり染まってました。

話はズレるかも分かりませんが、

『人に認められなければ価値がない』
と厳しく躾けられ育ったので、

限界が来るまで他人に認められるために
生きてきました。

ただ私の場合、
どう足掻いても認められなかったんで(苦笑)、

だったらもう、
自分の考えを信じられるようになった方が
まだしも楽だなと思って、

疑問に思ったことに
自分なりの落とし所を見つけて、
それに満足することにしたんですよね。

経緯としては、

親の意見に従順に従ってみたところ、
それは私の人生には何の役にも立たなかった。

しかし世間には、
親と同じ意見を述べる人の方が多い。

でもそれらの意見に迎合して生きる術を
身につけることができなかった。

そんな自分を落ちこぼれとみなして
消そうとしてもうまくいかなかった。

じゃあ今度は自分の考えを信じてみよう…
そう思って今に至るんですがね。

そんな私がふと興味を抱いたことに
自分なりに落とし所を見つけるために
あれこれ調べたり、考察してみたところ、

その『今の社会の流れは数百年前から
地道に構築されてきた』という説に
妙に頷けてしまったんですよ。

別に肯定したいわけではないんですがね。
そういう説が浮上しても仕方のない
社会の有り様だなと思ってしまいました。

だから私は陰謀論者の情報を取り入れる際には
注意が必要だと思っていますが、
(ただ恐怖を煽られて終わる可能性が高いから)

陰謀の存在を知り、
なぜそれが生まれたのかの背景を知り、

それを踏まえた上で
自分たちがどうするのかを決めていくのが
大事なのかなと思うようになったんですよね。

簡単なことではないんですけどね。
やって意味のないことではない。

むしろ、よくわからんモンに巻かれても
巻かれ損で終わることの方が多いから、

自分の考えや意見をより大事にできた方が
誰にとってもいいのではないかな?

それが自分の人生で功を奏するかどうかは
やってみなければ分かりませんから。




マトメニティ


ここまでくそ長々と
ポリコレについて思うことを
述べてきましたが、

この辺でまとめに入ろうと思います。

どれもこれもあくまでも
『俺がそう思うだけ』っていう話に
過ぎないんですが、

一応まとめポイントを箇条書きにしてみます。

------------------------------------------------------------
①ポリコレ過剰配慮は、
 意図的にマジョリティを
 イラつかせている可能性があるため、
 そもそも相手にしないのが賢いのでは。

②もしポリコレ過剰配慮に
 憤懣遣る方無くなってしまったのなら、
 『俺は正常BMIの白人美女が大好きだぜ』
 って思い切って言って、
 スッキリした方がいいのでは。

------------------------------------------------------------

②の補足になるけど、

確かに”これ”をやっちゃうと、
発言者はマイノリティから
叩かれる恐れが出ます。

でも、

他人を叩く人は、
マイノリティだろうが
マジョリティだろうが
そもそも狭量だとわしは思うので、

自分を非難する人の意見を
受け入れる必要はないと思うんですよね。

また非難を恐れて
自分の言葉を飲み込みすぎると、
それが欲求不満となって鬱憤が溜まる。

さらに本音を飲み込みすぎると、
鬱憤を溜めていた器からそれが漏れ出して、
拡大するんですよ。

そうすると、

初めは特定の何かを
限定的に恨んでいたのだとしても、

関連するあれこれにまで
恨みの矛先が伸びていくんです。

どういうことかというと、

当事者にマイノリティを
排除する意思がはじめはなかったとしても、

本音を隠し続けることによって、

結果的に怒りの矛先が
ポリコレ配慮を行う発信者の枠を超え、

ポリコレ配慮対象であるマイノリティに
向きやすくなるんですよね。

実際どうかは当事者各位にしか
わからないことなんで、

よくよくご自身に問うてみて頂きたい
ところではありますが、
強制するつもりはありません。

私が聞いたことのある話を参考に
別の例を用いると、

父親から粗末に扱われたことで
男性全てを恨むようになったとか、

母親との関係がまずいことで
女性全てを恨むようになったとか、

特定の恋愛対象にフラれた事で、
その恋愛対象と同じ性別の
全ての人を恨むようになったとかは
割とよく聞く話ですが、

それと似たような状態に陥るんですよ。

多分、人間の心理構造が
”そうなってる”んだと思います。

加えて『例が多い』ということは、
それだけ多くに該当する話だと思うんですよ。

で、私はこれらの心理は他のケースにも
置き換えることができると思うんですよね。

また私自身も似たような体験を
したことがあります。

特定の条件に当てはまる人から
理不尽な思いをさせられたと
感じたことがあって、

その思いに納得できずにいることで
索敵範囲がどんどん広くなっていったんですよ。

つまり、

『特定の女子に振られただけで
全ての女を恨む』

というのと、

似たような状態に陥ってしまったんですよね。

だから私は、自分自身の体験も含めて、
人間の心がそもそもそういうふうに
できてるんだと捉えてます。

本来ならば
『自分の欲求を満足させてくれなかった』
ポリコレ配慮を行う製作者に対し、

『どうして金を払った俺たちを裏切るんだ』
と言いたいだけだったのに、

その言葉を飲み込んでいる人ほど
ポリコレ過剰配慮に目を向けては、

やがて憤懣遣る方無い思いを
ポリコレ配慮対象にまでぶつけたいのを
抑えられなくなってる様子を見るにつけ、

そんなマジョリティ達の
手前勝手な恐れから安易に排除対象とされては、

健全なマイノリティも
たまったもんでは無いので、

いっそのこと非難を恐れず
自分の好みを叫び散らかせば
良いのでは無いかと思った次第です。

配慮っていうものは、
心からそうしたいと思わなければ
なんの意味もないので、

誰にも配慮したくない、
自分の好みを押し通したい
というのが本音ならば、

そうしたほうが
案外ことは丸く収まるんですよね。

くそ極端なことを言うようだけど、

たとえば電車とかで
体の不自由な人に席を譲るみたいな、

日本では当たり前の道徳観として
槍玉に挙げられるようなことも、

本心から気遣いたいと思わずにやってしまうと、

当事者が変な承認欲求を働かせて
『気遣いしない人』に苛立ちを覚えたり、

自分の行動が報われるかどうかを
気にしてしまい、報われなければ
配慮した相手に恨みを覚えたりするんで、
意味がなくなるんですよね。

そんな半端な配慮なら
初めからせんほうがいい。

だったら、

『目の前に老人や体の不自由な人が
現れたとて席を譲らない自分』に納得して、

それに幸せを覚えられるようになった方がいい。

面白いもんで、幸せ感度が高まると、
勝手に他人に配慮できるようになるんですよ。

自分の行動が報われるかどうかなんざ
気にならなくなる。

そうなった時に初めて配慮というものは
意味をなすんですよね。

不思議ですけど、

一応私の場合、無理して配慮してた時は
苦しくて仕方なかったんだけど、

わがままで変態でおかしい自分を
少しずつ許していくと、

なんか吹っ切れて幸せになって、

『なんだかお裾分けしたい気分』
になったんですよね。

強いていうなら、

その感覚をたくさんの人に
体験してほしいなって思いますね。

話を戻すと、

私は人外の異形と、

女子という存在が
人種だの体型だのを問わずに
無条件に好きなんで、

割と例に漏れる感じはありますが、

好みはそれぞれなんで、

『白人の適正BMI美形女子しか勝たん』
と思っとるならそれはそれでよくて、

わざわざポリコレ配慮事情に
非難を向ける必要もないんじゃないか
と思うんですがどうでしょうか。

誰かの行動を非難(憎む)するくらいなら、

自分が非難されることを恐れずに
自分の好みを全面に押し出したほうが
よっぽど平和だと思います。

別に叩きたい奴には
叩かせておけばよろしいのですよ。

自分の価値観と異なる価値観を
受け入れられないか、

自分の欲求を他人が満たしてくれるもんだと
勝手に思い込んでわがまま言ってるだけやし。

知ったこつはなかとです。

わがままは当事者にとっては
悪いことではないんですが、

他人に向けてそれが受け入れられる
という経験を重ねてしまうと、

他人にぶつければ自分は満たされるって
思い込んでしまうんですよね。

そこから『わがままは自分で満たすもんだ』
となるまでには当人がそれに
気づく必要があるから、

相手にしないのが最大の親切であり、
配慮なんだと私は思います。

…なんか最後は変な提案で
終わっちゃいましたけど、

ギリ二万字以内(笑)

お付き合い下さりありがとうございました。








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