いい奴の定義を履き違えると組織が腐る。
はじめに
私は一応サッカークラブのコーチを生業にしている。
日々の練習の中での気付きやなぜそうなるのか?それを改善するためにはどういう言葉を用いればいいのか?を自分なりに考えているつもりだ。
俺は今日、選手に混ざって自分も一緒に練習をした。
俺は自分がミスったとしても、それを棚に上げ平然と人に指示を出すし要求をする。
でも中にはそれをダメな事だと思っている人もいるという事に今日気が付いた。
それはいい奴でいようとしている奴だ。
気持ちは分かる。
日常生活においてはそれは凄く大事な事だと思う。
スポーツと違い日常生活ってのは勝つか負けるではなく、いかに周りの人とWin-Winな関係を作っていけるかが大事だからだ。
でもスポーツの目的、練習の目的ってのは自分がいい奴になる事ではなく、試合に勝ち自分を高める事が試合と練習の目的だ。
そうなった時にそういった「いい奴」ではいようとする事は却って、自分と組織の首を絞める事になると私は思う。
双方にいい奴ではいられない
私は勝負の世界で「いい奴」でいようとして上手くいかなかった過去がある。
いい奴でいようとする事は別に構わないけど、それはその時々で変化するってのを知っておかないと、激しい競争や勝負の世界ではそれが「負の人格」になる。
勝者がいれば敗者がいるって構図のゲームにおいて、いい奴ってのは味方からも頼りにされないし敵からも恐れられない。
自己主張をしない味方にとって無害な人間ってのは敵に対しても無害であり、厳しい言い方をすると「別にいてもいなくてもいい存在」だからだ。
だからこそ、その時々で求められるいい奴ってのをしっかりと理解しておく必要がある。
サッカーなら敵からボールを奪えて逆に敵にボールを奪われず、自分のゴールを守れて相手から得点を奪える。
そんな奴がいい奴なんだよ。
勝負の局面で敵にも味方にもいい奴ではいる事はほぼ不可能なんだよ。
敵に気を遣い身体をぶつける事もせず、ふざけたプレーをしている味方を叱責する事もしない。
そんな奴がいい奴では決してない。
でもそこを勘違いしている人がたまにいる。
各々がいい奴の定義を履き違えると組織が腐る。
セルヒオラモスを見てみろよ。
ライバルチームにはまず間違いなく嫌われている。
ただあんな奴が味方にいたら凄く頼もしいだろうなとも思う。
だからこそ、味方からの支持は絶大だ。
話を少し飛躍させると、恋愛だって同じだ。
恋人にとって無害な男性ってのは外の脅威に対しても無害だ。
本気でその人との関係性を今後も続けていきたいと思うからこそ、避けては通れない衝突や自己主張がある。
そこから逃げる男。
つまりいい奴を履き違えた男ってのはやがてその関係性そのものを腐らせてしまう可能性がある。
自分がその物事について本気なら「肉を切らせて骨を断つ」そういった覚悟が必要な時が必ずある。
俺は何事においてもそこから逃げない男でありたい。
おわりに
今日の練習で感じた違和感を今こうやって言語化している。
仲良し集団じゃ絶対に勝てない。
多分これは会社もチームも同じじゃないのかな。
そうならないためにも、人の上に立ち組織を導く立場にある人間は「人を納得させる言葉」を持ち合わせていなければならないと俺は思う。
だからこそ、いっぱい本を読んだり経験したり、それを言語化する時間を作る事で、人を納得させる言葉を俺は磨いている。
でもまだまだだと思う。
もっと観察してもっと経験してもっと勉強しようと思った。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
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