救われる人と救われない人
はじめに
私がこのノートを書こうと思ったのは誤解を招きたくないと思ったからだ。
私は病む奴は考え過ぎってよりも決断力と行動力がないだけだと思っている。
しかし、そう思い発信しようとした時に「それは決断と行動によって俺が成功や現状の改善を運良く経験できているだけではないのか?」という疑念が頭をよぎった。
もしかすると決断し行動した結果、現状の改善どころか却って状況は悪化し、次に決断し行動するというのが億劫になっている人もいるのではないか?そう思った。
もしそうだった場合、私の言葉はその言葉を用いた自分の意図に関わらず、その人を傷付けてしまう。
だから私はここに記す事にした。
そもそも私が「病む人は決断力と行動力がないだけではないか?」と思ったのには理由がある。
以前、自称病んでいるという人の相談を受けた際に、こっちがどれだけ話を聞いて道を示しても、当の本人は絶対に決断しないし行動しない。
それどころか、考え過ぎた結果文句とできない理由を延々と述べるだけで、会話が出口の見えない迷宮に迷い込んでしまったという経験がある。
その経験を何度か繰り返す中で私は「病む人は決断力と行動力がないだけではないのか?」という意見を持つ様になった。
怪我をしたら絆創膏を貼る
転んで怪我をし血が出たら絆創膏を貼る。
そこに疑問を抱く人は少ない。
絆創膏を貼ったにも関わらず血は止まらず、絆創膏の意味を成さない可能性があるにも関わらずだ。
でも、絆創膏を貼らないと血は止まらないかもしれない。
細菌が繁殖して余計に悪化するかもしれない。
だから私たちは絆創膏を貼るんだ。
中々決断できない。
行動に起こせない。
その気持ちは分かる。
でもそれじゃいつまで立っても現状は変わらない。
「これ以上傷付きたくない」ってのは「傷付いた状態のままの自分を受け入れる」って事なんだ。
これ以上傷付きたくはないけど今の自分の現状も改善したい。
自称病んでる人は無意識化でそう思ってるんじゃないのかな。
それは凄く虫がいい話だと思う。
絆創膏を貼るという決断と絆創膏を実際に貼るという行動を起こさないまま、血は止まってくれて、おまけに細菌にも侵されない事を期待しているんだ。
私は思う。
人に救われるのは救われる気概を持つ者だけだと。
結局は自分なんだ。
「病む奴は考え過ぎなだけ」って言われてるけど、私が考え過ぎても病まないのは必ず決断して行動しているからだと思う。
考えたり悩んだりするのって終わりがないから、自分の決断と行動でそれを終わらせるしかない。
少し厳しい意見かもしれないけど、現状を変えたかったら悪化する可能性を受け入れて、自分で決断し行動するしかないんだ。
絆創膏で血が止まらないなら、保健室へ行った方がいいかもしれない。それでも無理なら救急車を呼んだ方がいいかもしれない。それでも無理なら手術をするしかないかもしれない。
でも選ばないと、決断しないと何も始まらない。
決断する覚悟を持つ事。
その覚悟があって初めて、人に相談しその意見を自らの決断の取り入れることができるんじゃないのかな。
それが救われる気概を持つって事だと私は思う。
おわりに
私は自分を頼ってくれる人をみんな救いたいと思っている。
でもそれを実践しようとした時にどうしても、最後は本人次第であるという難問にぶち当たる。
じゃあどうするか?そう考えた時に俺を頼ってくれる人のマインドを、自分の日々の発信や在り方で、徐々に救われるマインドに近づけていくことが大事なんじゃないか?そう思う様になった。
だから一緒に学ぼうという姿勢を常にとっているつもりだ。
俺もまだまだ未熟だが、共に学びましょう。
そして時々寄り添い合い助け合いましょう。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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