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父記録 2023/5/1

5/1
晴れ。大きく膨らんだ薔薇がこんもりと咲いている。紫色のブルームーン、黄色のゴールドバニー、ピンクと白のグラデーションはピエールドロンサール。

昨日は私が高円寺大道芸に出演していたので母とゆきおさんが面会に行った。
「ふたりで悪だくみしてた話とかしてたわよ。」と母。聞きたかったな。

今日の母は駅ビルのユニクロでズボンを二本買ったそうだ。
毎日経由駅に早く着いては駅ビルを見て回ったり、帰りにお惣菜を買って帰ったりしている。
コロナ禍の影響もあり、犬の散歩以外はほとんど外出も外出もしていなかった母が毎日バスと電車を乗り継いで病院に通っている。
疲れてしまうのではと心配もしていたが、母なりに楽しんで通っているみたいで少し安心した。

コンコン。コンココ・コンコン・コンコン!

母が父の病室のドアをノックした。
「あたしとともちゃんが来たわよ〜」

今日の父は殊更に右に傾いて胎児のような姿勢で眠っていた。
時々、ネックレスを組んでいるように腕と手指を動かす。

今朝、父は胃カメラ検査をした。
胃の位置や形が胃ろうを作れる状態かどうかを確かめるための検査。
主治医の先生がやってきて検査結果の説明を聞いた。
父は三十代前半で十二指腸潰瘍の手術をしている。検査前の面談でそのことが少し気にかかるとは言われていた。
胃を切除しているため、胃の位置や形が通常と違ったり、捻れていたりして胃ろうを作りにくい場合がある、と。
胃カメラ検査の結果、父の胃は通常より高い位置にあり、想定していた簡易な手術では胃ろうを作りにくいということが判明。
大学病院で全身麻酔で開腹手術して作ることは可能だが、今の父の状態ではメリットよりリスクの方が大きい。また、検査時に徐脈(脈拍がゆっくり)が見られた。
このまま経鼻胃管で様子を見て、移動が可能になれば然るべき施設に移動を検討するが、今はまだその段階ではないとのこと。

先生はゆっくりと丁寧に現状を説明してくださった。
胃ろうの選択肢はほぼ消えた。
父は絵を描く仕草をしていた。

母方の祖母が母の結婚当初、肩を落として俯いて歩いていた、という話。
店をオープンした頃、母が宣伝の為に大学通りで道売りをしていたら、祖母が近所の人たな「お父様がご存命でしたら、さぞかし嘆かれたことでしょうねえ」と言われた、という話。
無職で裸踊りや爆発やら、プラスチックで人間の型取ったりしていた父は交際1〜2ヶ月で銀行員の娘である母に結婚を申し込み、当然母の両親に反対された。
母は祖父が懇意にしていた地元の喫茶店「ロージナ」のマスターに祖父の説得を頼み込み、マスターが「村田くんはきっと将来大成するから」と言ってくださったそうだ。
ロージナは「東京最古の喫茶店」とも呼ばれ、生きていれば100歳くらいになるマスターが若い頃にヨーロッパを放浪して食べ歩いた料理からレシピを作ったという。
マスターは芸術にも造詣が深く、ロージナには沢山の絵画やオブジェが飾ってあり、美大生や一橋生、画家、作家なども多く訪れた老舗喫茶店である。
入籍後、母の生活ぶりを案じた祖父がマスターに頼んで新婚の父母の住まいであるボロアパートを見に行ってもらったそうだ。
天井がなくて直接トタン屋根、共同台所、演劇や美術関係のおかしな人ばかりが出入りするボロアパート、さんえい荘である。
マスターは「あの時はとてもとても、笹山さん(祖父)に本当のことは言えなかったなあ」と後年マスターが教えてくれた。
お洒落で温厚で威厳のある方だった。

父の頭が傾いて枕から落ちた。
母が「あらあら頭が落ちたよ、よいしょ、よいしょ、ほらっ」と強めに起こした。
「『乱暴だなあお前は相変わらず…俺がこんななのに。ともちゃんみたいに優しくやってくれよ』なんて思ってるわよ!」
と、父の口真似をして母が笑う。
母は色んな意味で不器用な人だ。
父の病気を長いこと認められなかった。
介護もうまくは出来なかった、と思う。
じゃあ私が介護したのかと言えば、実質的にはしていないので偉そうなことは言えない。

六年前、私は自宅と小規模多機能施設を行き来しながら同居していた母から父を引き取り、当時の私の自宅近くの民間老人ホームに入れた。その後私の転居を機に杉並区の特養に申し込み、入居し現在に至る。

一度物理的に離れ、数年を過ごしたことで母は父の今の状態を受け入れられたのではないか、と思う。
かつて、「父の病気を受け入れていない」と母を責めたことがあった。
お母さんはお父さんが大好きで、前の頼り甲斐のあるお父さんじゃなくなったのが悲しくて悲しくて仕方なかったのだ。
ごめんね、お母さん。

「お父さんは右向いて寝てたのねー。お母さんも右向いて寝てたから、お父さんこっち向いてたのね」

テレビの音が静かに流れていた。

「今日ね、電車乗って本読んでたら酔っちゃって。気持ち悪くてなんだかアイスクリームでも食べたい気持ちになってね」

父が強く反応した。
体を震わせて一生懸命何かを言っている。
耳を近づけてよくよく聞いてみると
「たべたい  アイスクリーム!」
と聞き取れた。
「アイスクリーム!食べたいよねえ、ごめんね食べたいよねえ!」母とふたりで叫んだ。

廊下に出て、自動販売機で桃のネクターを買って飲んだ。お父さんも少し飲めたらいいのに。

看護師さんが備品の補充にやってきた。
「今ね、『アイスクリーム食べたい』って。可哀想で可哀想で」
母が看護師さんに言った。
「あ〜そうですか〜そうですよね!今日口腔ケアのスプレーをした時に、これ、歯磨き粉みたいな甘い味がついてるんですけど、ちょっと美味しそうにされてました。
口腔ケアのスポンジにジュースとか、ちょっと染み込ませて味を楽しむっていうか、そういうことなら可能かもしれません。垂れない程度にほんの少しですけど」
と看護師さんが言うと母は
「わあ〜ほんとに?!うれしい!うれしいわねえ〜!」と飛び上がらんばかりに喜んだ。

母が「何か冷蔵庫に入れておこうかしら。何がいいかな」と言うので
「自販機に桃のネクターあったよ」と言うとすぐに買ってきて大事そうに冷蔵庫にしまった。

2時間経った。
「また明日ね。なによ、泣きそうな顔して!」
「また明日来るからね。」
「また明日、ともちゃんと来るからね!」
またあした。また、あした。

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