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人生楽しんだもん勝ちだってさ

人生は、楽しんだ者が勝ちらしい。

私の周りには(おそらく、皆さんの周りにも)この言葉を使う人がたまにいる。
私自身、一度や二度ならず言ったことがある言葉だ。

確かに、この言葉は一種の真理を含んでいる。
なぜなら反論の余地が少ないからだ。
「人生を楽しんではダメ」という言説は、現行の社会では無理がある。

幸福追求権を補償されている現在では、人生を楽しむことは禁止されてないし、同時に楽しまないことも禁止されていない。
それならば、楽しんだもんが勝ちだろうと言ったところか。

ここまではわかる。
しかし、楽しんだら勝ちなのだろうか?

自分が楽しめない時期にこの言葉が重荷になることもある。
今まで楽しいと思ってたことも楽しめない、前向きな感情になれないという時期や瞬間は私だけならず、多くの皆さんにも経験があるはずだ。
そんな時に「人生楽しんだもん勝ちだよ」なんて言われても、苦笑いで「そうだね」と返してしまう。

そもそも、人生を楽しむとはどういうことだろう。

おもしろき
こともなき世を
おもしろく

住みなすものは
心なりけり

高杉晋作、野村望東尼


高杉晋作は人生を楽しんでいたのだろうか。
そんなことを、ふと思う。
もちろん、今の時代の価値で彼を測ることはできない。しかし私には楽しんだというより、迷い、悩み、それでも上手くいかず、最後の最後で燃え尽きたという印象を受けます。
とはいえ、留学(遊学)として藩から預かったお金(公金)を酒や芸者で使い切ってしまうという破天荒なエピソードは文字通り楽しんでいたとも思えますが。

しかし、今の時代で使われる「人生楽しんだもん勝ち」という価値では生きていなかったように感じます。
もちろん時代が違います。時代が違えば価値観も変わるでしょう。
それでも、人が生涯を全うするという行為には大差はないと思うのです。

人生は楽しんだほうがいい。
そこは間違いないでしょう。
しかし『勝ち』かどうかを誰が決めるのでしょう。
特に楽しめない時期に、勝ち負けの価値観は人を苦しめたりします。

そんな時『勝ち負け』の螺旋階段から降りてみることで気持ちが楽になるかもしれません。
勝ち負け以外の価値を見つけることが、再び人生を楽しめるヒントになるような気がします。
そして新たな価値観で人生を楽しめた時、それはもう勝ちと言っていいのではないでしょうか。


……あれ!?



「人生楽しんだもん勝ち」という最初の疑問が結論になって帰ってきました。
終わり方を決めずに書き始めてしまい、このようなことが起きたんだと思います。

とはいえ検証の結果、どうやら「人生楽しんだもん勝ち」で間違いないようです。

あえて一周した成果を記すなら、人生楽しんだもん勝ちで、楽しみ方にはそれぞれの価値観や、色んな楽しみ方があるよーってとこでしょう(我ながら薄い結論だ)


三千世界のカラスを殺し
ヌシと朝寝がしてみたい

都々逸どどいつ


日常の瞬間を、こんな素敵な歌に変えられる高杉晋作。
彼もまた、ある場面では人生を楽しんでいたんだと思うようになりました。

書きながら思考が深まることってあるんですね。
こんなことを繰り返しながら、私も人生を楽しんでいきたいと思います。



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