やる気の正体。
私たち人間には、やる気が出るときと出ないときとがある。
他の生物にもそんなことがあるのかは知らないが、「人間は–特に裕福な経済国家の一員である日本の中級階級の者たちは–明日食うものにも困らないし、今日の寝床も、今の寒さを耐え凌ぐ衣服も飽和しているから、そういうくだらない話があるのだ」と言われるとそんな気もしないではない。
光陰矢の如しとはよく言ったもので、年月が過ぎるのは早い。
私が心療内科の門を叩いてから、はや半年が経った。
薬物療法を行うこと以外には、心療内科あるいは精神科というのは個々の医者の思想によるのではないか、と思いつつ、導眠剤のおかげでとにかく安らかな睡眠は得た。
そうなわけで、今日は、行動の選択についての考察を話したい。
a. 導入
b. 理屈
c. 感覚(抽象)
d. やる気の正体
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「なんだか、やる気が出ない」「元気が出ない」「好きなことをやっているはずなのに全然楽しくない」「好きな音楽を聴いているのに耳障りに感じる」「耳鳴りがして漠然とした焦りに体が火照る」
専門的な話は、専門家にお任せするとして、上の遠因には
”私たちの本当になりたいあるべき姿”からの乖離があるのではないか
、と思うのである。
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つまり、今の自分の努力のベクトルが、本来自分がなりたいもの・やりたいことにマッチしていない、あるいはそれによって周囲への”迷惑”をかけているのではないかと気を揉む、そんな状態である。
すなわち、今の自分のあり方に
納得感を得られていない
のである。
私が思うに、人生の目的、人生のゴール(これは点ではなく線あるいは面などで表される領域である)は、少年漫画の主人公やいわゆる成功者としての生き様、親や師など自分ではない何者かによって期待されるものではなく、
いかに自分が納得感を持って生きられているのか
にある。
自分が生きている間に、必ず生きていると保証できるのは、自分しかいない。
そして、少なくとも言えることは、百年経てばみな塵だ、ということだ。
では、次にその納得感を得るにはどの様な条件を満たせば良いのか、だが
それは、
① 心に美学を持つ
②自己を認め、受け入れる
ことである。
善もまた、本質的には、他者のために生きる利他精神ではなく、己の美学を貫く昇華された利己主義なのではないかと私は見ている。
そして、本当の意味で、偽善でなく、ために生きることができるのは、自分を認めてあげることのできた者のみなのではないかと。
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次に感覚的なモノに抽象化して捉えてみよう。
心に美学をもち、自己を認めている人というのは、自然とプラスの力を放っている様に思う。
逆に、その対極に位置するのは、いつも不機嫌でイライラしており、何かと理由をつけて文句を言い、人に突っかかるタイプの人である。
たいていの人は、その両者が、良心と邪心として、心に住んでいることだろう。
私が思うに、エネルギーに満ちている人というのは、熱血野郎ではない。
いや、個人的には熱血野郎は好きな部類の人間ではあるが、あれは別にみんなが目指す最終形態ではない。
対していると、自然と屈服してしまう様な、あっと思っとときに「この方には敵わぬ」とニヤリとしてしまう様な人物である。彼らは
静の中に動を住まわしているのである。
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さて、少し横道にそれたが、やる気の正体について、考察してみよう。
やる気とは、すなわち、己の美学を世に打ち出すエネルギーである。
であるからして、利他主義の延長であり、利己主義の延長でもあるのだ。
誰かのために生きるとき、力が湧い出たという経験がある人もいるだろう。
一方で、自分の夢をかなえるために、徹底して力を注いだという人もいるだろう。
両者は全く別のベクトルを持っている様に見えて、ある次元においては、同じなのだ。
天命とは、自分のやりたいこと・好きなことをやっていると、それが(なんともラッキーなことに)人の役にも立ち、周りの人が笑顔で幸せになれる、自分のあり方である。
もし、あなたが、今力が湧かなくて悶々としているのであれば、今一度自分自身を見つめ直す、あるいは”素敵な人”を見つけて観察・研究してみてはいかがだろうか。
鮑叔館 珠李