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#17 例のラーメンのやつから派生するアレとコレ(後)

前回までのあらすじ:●●評論家、という肩書がつくだけでテレビに出て発言できちゃうので、そもそも「評論」に対する誤解が生じておるんじゃ。

 ものごとおおむね「コレなら自分にもできる」と思わないとやろうとしないし、身につかないと思うのですが。それがわたくしの場合、それは椎名誠であり「あやしい探検隊」であったのです。というわけで前編に引き続き「昭和軽薄体」の話。

 そもそもこうした文章を書きはじめた(で、あわよくば食っていこうとした)のは高校生の時で、それ以前の中学生あたりからの読書の蓄積として『わしらは怪しい探検隊』をきっかけとした椎名誠があった。ありました。で、面白く読んで「コレなら自分にもできる」と思ってしまった。「自分にもできる」「これでいいのだ」不遜だとは思いません。「コレなら自分にもできる」と思わせるところが椎名誠の、あの時代の「昭和軽薄体」の役目だったからだと思うのです。

 個人的な体験から書き始めると時系列がごちゃごちゃになってしまうので、もうちょっと整理して書こう。昭和軽薄体のはしりとなった『さらば国分寺書店のオババ』『わしらは怪しい探検隊』が1979年。もともと文章というのも徒弟修行みたいなところがあって、様式を学んでからオリジナリティを出せ(今もそういう事おっしゃる先生、いくらもおられます)という空気のアンチテーゼから「昭和軽薄体」が生まれるわけです。様式なんか学んでいる場合ではない、「今、この空気を書かねばならない」という機運は、文章たるものなんらかの威容が必要であろう、という前提を打ち崩し、結果として「なんだ、これでいいんじゃん」という気づきを(書き手も読者も)得たというのがエポックメイキングだったわけです。

 ただ、この流れの前段階というものがあって、ちゃんとした研究自体がないと思うのですが、60年代に活躍した殿山泰司なんかの、いわゆるインプロビゼーション的な、芸能おしゃべり的な文章というのが多少は影響していたろうなぁ、という推測は立つ。このへんはちゃんと調べたらきっとスッキリするんでしょう。しようかなぁ、するんじゃないかなぁ。まぁちょっとは覚悟しておけ。ただ、タンカンに申し述べると、殿山の文体と昭和軽薄体の差は明確で、芸人と客との間に明確な境界があるか、読者と同じ方向を向いてさも馴れ馴れしく喋るか、の差でございます。であるから、昭和軽薄体自体の寿命は短くて、命名者の椎名誠も早々に軽薄体そのものからはさっさと商業向けの、もうちょっと作家と読者の境界を意識した文体に切り替えておるのです。やはりそこは、個々との距離感がわからない、不特定多数向けの文体ではなかった、ということなんでしょう。

 個人的な話に戻ると、アタクシなんぞは90年代、中高生の時に昭和軽薄体の洗礼を受けたのち、大学生になってから殿山泰司の影響をガンガンに受けて今の文体に至っております。どうもお前の話は時代や空間があっちいったりこっちいったりして読みにくくてかなわんでぇ。反省しろッ! と殿山文体をパクるとこうなってしまう。常に照れからくるセルフツッコミがついてまわる。

 本題に戻るんですが、例のラーメンのやつ、「昭和軽薄体」呼ばわりすることにはそんなに違和感を感じないのです。あれは、自他の境界のわからない、そういう「様式の壁を破壊する」ところで役目を終えている文体だから……と、そういうオチでよろしいでしょうか。まぁそういう事が言いたかった、ということでよいのではないかと思います。

 ところで、今書いてて思い出したんだけど「世界の料理ショー」の語りなんかはどうなんだろうネ、あれ、アタクシ、人前でしゃべるときの手本にしてるゥ……などと詳しい話だと止め処なく風呂敷が広がってしまうので、この辺でチョン。

みなさんのおかげでまいばすのちくわや食パンに30%OFFのシールが付いているかいないかを気にせずに生きていくことができるかもしれません。よろしくお願いいたします。