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#88 楽屋の神様

 山本ひろ子『摩多羅神 我らいかなる縁ありて』読了。
 本書でも「この本がどんな人に届くのか」といったような言及がなされていたが、ナニ、東方でござる。「東方天空璋」このゲームを経て、摩多羅神に興味を持った。で、がんばって読んだ。
 以下、学術的でもなんでもない。ただの触発されただけの作文が続く。

 本書の内容を簡単にまとめると、「摩多羅神」とは由来のはっきりしない神で、だがしかし、比叡山の常行堂、阿弥陀さんを祀っておられる東北あたりにひっそりと、しかしながら厳然と祀られているという。ポイントは「由来がわからないけれども「後戸うしろどの神』として他の佛様と、もしかするとそれ以上に大事にされている」ことで、「謎だ」てぇんで明治のご一新、廃仏毀釈のときに「摩多羅神」、ずいぶん棄てられたとか。これが地方に行くと、たとえば平泉の毛越寺もうつうじでは豊年満作の神の役目を兼ねらせたりすることで無事現代にも生き残っている――などなど、摩陀羅神についての資料の少ないなかを丁寧に、現存する資料と取材を通じて摩多羅神の正体に近づいていこう、というのがおおむねの内容でございます。

 一方、「東方天空璋」の方では摩多羅神モチーフのキャラクター、摩多羅隠岐奈は「あらゆるものの背中に扉をつくる程度の能力」があるとされていて、扉ができるってえと普段とは違った思いもよらないような能力が開放される、といった仕様になってございます。川村湊『闇の摩多羅神』のほうでは天空璋にちょっとだけ触れられていた気がする。
 本稿でやろうとしているのは、実際の本書にあった取材や研究と「東方天空璋」を見比べてみると、なんとなーく本質的なものが浮かび上がってくるのではないか、という考察と仮説くらい。それ以上のものはございません。

 実際に摩多羅神の祭祀なり儀式なりが執り行われるのは、本堂の後ろにあるコク部屋という小部屋で、ここに寺の幹部連中が集まって、ナニをしているかというと、「お互いに足を踏み合って入場し」たり、「お経を読ん」だり、「言葉遊びをし」たり、「的当てなんかをし」て遊んでいる、という。「供えられた野菜を煮て、そいつをつまみに酒を飲んでいる」というのもあったかしらん。とまれ、そうした親睦に近い行為を行うことで、寺に帰属することの意義をもう一度思い出す――と、この辺のニュアンスはずいぶん適当です。

 ははあ、これはあれだ。摩陀羅神、ひとことでいえば「楽屋の神様」なんであろう。そう仮定するといろいろと納得がいく。
 これ、演劇やお芝居で例えるとわかりやすいの思うのだけれども、楽屋入りするまでは普通の人だったのが、楽屋で着替え、化粧をし、セリフをさらってから舞台に上がる。舞台ではふたつのものに相対する。観客と、それから芸能の神だ。これは寺における法要も同じことで、楽屋、控室、講師部屋、なんでもいいや、舞台に上がる準備をしながら、同時にヒトからヒトならざる存在になっていく通過儀礼イニシエーションの場に神を設定することで、あらたえて儀式に立ち向かう覚悟を、神性を得る。身におろす。
 これを天空璋では「あらゆるものの背中に扉をつくる程度の能力」として、パワーを調整する能力、本番で発揮できる力を与える存在として設定したのではないかしら、という解釈は可能であるかと考えます。
 あくまでも仮説です。仮説ではあるがもう少し展開する。

 以上の仮説が正しかったとして(裏付けとなる資料が出てきたとして)、廃仏毀釈の時代にこの御利益を明治政府に説明できただろうか。多分出来なかったであろう、つまり、一般衆生のための信仰というよりは、内々の、職能としての(これも変な云いかたなんだけど)、僧のための神。非常に説明に窮したろうし、かといって公にするわけにはいかない。ぢゃあ元々のお釈迦様の教えはよ、となると、どうにもならず、前述の通り他の衆生のご利益と習合することで生き延びていった、というケースしか残らなかった……のではないか。

 以上、ひととおり読んでみてごちゃごちゃと追想したことでございます。
 得られる教訓としては、こんど高校演劇の現場に出たときに「楽屋というのはチミたちが準備をしながらヒトならざるものになる通過儀礼の場なんだから、普段からキレイにしとかなきゃいけないよッ」てなあたりでしょーか。でも、もっと応用範囲を広げて「仕事に入るまでのルーティン」と考えれば、そこには決まった動作があり、小綺麗にしていることですぐに没入できるようなことがあると思った。

※ ヘッダーの画像はwikipedia「摩多羅神」項より引用しました

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