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【会長の逝去】

11月22日に会長が83歳で死去した。それから今日でちょうど1週間になり少しずつではあるが生活に落ち着きが見られるようになり始めた。

11月12日にかなりの回数を嘔吐したにもかかわらず救急車を呼ぶのを拒否し、結局救急車で運ばれて、腸閉塞からの胃酸の肺への逆流により肺炎にかかり命を落とすことになった。先生によれば、最初に吐いた時点で救急車を呼んでいれば事態は変わっていたかもしれないと言っていたが、後の祭りであり、長年の糖尿病で臓器は弱っていただろうし、寿命だったと解釈している。

それでも、28年前に大腸がんと肝臓がんを患って病気を克服してここまで生きたのは奇跡でもあった。2-3年前に頭を打って硬膜下血腫になってからは入退院を繰り返し、今年の8月にはお酒の飲み過ぎで肝臓の数値が悪くなり、入院をして、お酒を一切飲まなくなってからは元気すぎるまでになり、まだ5年は生きるのではないかと思っていた矢先であった。満42歳厄年で末っ子の私が誕生し、自分の数え厄年に亡くなったのは何かの縁だろうか。

亡くなる数時間前は息が苦しくなり、血圧が下がり始め、病院に呼ばれたが、その数時間後にゆっくりと息が小さくなり、血圧が下がって行ったというのは、何か電池が最後になくなっていくような感じに似ていた。そうすると、人工知能、AIと謳われている昨今において、人工知能は人間とは全くの別物だと言う意見もある一方、自分としては人間と人工知能も似ているところがあるのではないかとも率直に感じた。

亡くなる前と亡くなった後に医学的な説明を先生から聞いたのも、栄養やエネルギーがいかに体に運ばれて生命を維持しているかの理解が深まり、今後の自分への健康管理になるための学びも多くあり、ものすごく勉強になった。人間は主に、水、酸素、血液(栄養)によって生命を維持しているのは、植物となんら変わらないと改めて認識させられた。

肺炎は悪化するに従い、酸素が心臓に運ばれなくなり、心臓が機能しなくなることにより、血液及び栄養が体に行き渡らず死に至るということのようだが、特に心臓は強く、他の臓器も異常がなかったので悔やまれたのだが、他の臓器は健康であった中だったので、何か肺炎は首を絞められて亡くなったというようなことに似ているとも思った。しかしながら、繰り返しになるが、全体として見るべきであり、肺炎になったということは寿命だったと捉えるべきであると考えた。肺炎は高齢者にとってはやはり最も恐るべき病気の一つであるという事実を目の前で知った。

会長には毎日会って、営業に行ったり、旅行に行ったり、病院に付き添ったりして、よく一緒に過ごして尽くしてきたので、悔いはないということもあり、亡くなった後の数時間は一粒の涙も出なかったが、周りの方からのお言葉を頂く度に大粒の涙が出始めたというのは、皆様あっての存在だったのだとあらためて気付かされた。思ったのは、祖父母そして片親を初めて亡くして、上の天井がなくなったようで、まだ年齢的にはまだまだだが、自分の死の順番というのも意識し始めた。


通夜・葬式のやり方ついては、故人の意思はなく、家族の間で一瞬、家族葬でいいという選択肢が出たが、故人の性格を考えると、みなさんに集まってもらった方が故人も喜ぶと考え、近年の家族葬の流れから逆行するのを承知の上で、参加を遠慮頂かない形とした。家族葬にする方の最もな理由もあるのだろうが、世の中の流れに萎縮して、なんでも空気に流されて自粛するのではなく、最後に一眼見たいという人もいるだろうと、信念のようなものを優先させて頂いた。

ある程度若くして亡くなっていないのであれば、本来、特に通夜は明るく過ごすものでもあり、久しく会っていない人との再会の場でもある。家族葬が多くなり、親戚以外の通夜・葬式に久しぶりに参加したという人も多かったのかもしれないと感じ、自分もそのうちの一人で久しぶりの礼服の使用であった。こういったところで、繋がりや支えてくれる人への感謝というものも確認して、今後の商売のやり取りに活かしていけばいいとも思った。それが、会長の残してくれたものだと。

通夜・葬式の間は家族の体調不良もあり、怒涛の1週間であったが、身近な人の死への立ち合い、喪主としての経験など自分にとって大きな経験にもなった。もちろん繋がりや感謝は大切であるが、会長から事業を受け継いで、ある程度会社には競争主義のようなものを取り入れてきて、こういった時には感情論で捉えがちであり、自分が信じてきたものは大事にして、簡単に考えを変えるべきではないとも言い聞かせる。こういった時には、二次災害を起こすことが一番危なく、冷静に勝るものはないと考えて行動することも忘れなかった。

自分としては、色々な外での修行後、2015年に会社に戻る前になんとか1年だけでも会長の仕事のやり方を見られればいいと考えていたが、8年間見ることができたのは幸せで、1年で仕事を教わるというほど甘いものではなかったと今では思う。会長が亡くなる前は会長が緩衝材となり、自分に対する批判などが分散され、まだまだ独り立ちではなかったとも言え、今後は、全ての批判が自分に返ってくると覚悟して事に当たらなければならない。

会長は、仕事が趣味で、性格は飾らず、嫌味は一切なく、好きなものを飲んで食べ、やりたい放題にやった素晴らしい人生だったと思う。子供達に対しては、お金の苦労を一切させるわけでもなく、愛情をたくさん注いで子供達4人をまっすぐに育ててくれた文句のない父親だった。

仕事以外の趣味はなく、病院に運ばれる日の直前まで仕事場に行きあの世に行くことになったのは、好きだった野球に例え、グラウンドで最後を迎えると言った名選手の名言を達成できたようにも思う。ああ見えて気遣い、人を大切にして、明るく人に好かれる性格は自分には真似はできないが、故人の思いを託されたものとして、自分なりに一層、会長がお世話になった方のために恩返ししたいと考える。

今後、お世話になった方へのお返しなど、まだまだ忙しいが、忙しい時、溜まった仕事を処理するときは、ガッツ石松さんの喧嘩必勝法のように、目の前にあることを一つ一つ丁寧に素早く処理をしていって、それもいい経験と全てを前向きに捉え、一つずつ行っていきたい。

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