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わかりあえなさを共有すること。ウェス・アンダーソン監督『犬ヶ島』【ネタバレちょっとあり】

久しぶりに、ウェス・アンダーソン監督『犬ヶ島』(原題: Isle of dogs, 2018)を観ました。人と比べておそらく映画を観る本数が少ない私にとって唯一、アンダーソン監督の作品は、シナリオや出演者に関係なく「アンダーソン監督の作品だから観る」というキャンペーンが常に実施されています。


全体を章立てして物語を展開していく構成や、平面的・直線的な画面、ポップなのだけど嫌味のない色彩、台詞回し、常連俳優さんがどこに登場するのかといった楽しみ、衣装や小道具の細部までのこだわり…などなど、好きな点を挙げ出すとキリがないのですが、少なくとも映画好きは名乗れない私にとって、ソフトで何度も作品を見返すのはアンダーソン監督作品くらいのものです。


『犬ヶ島』は日本では2018年5月に劇場公開されたのですが、直後は私の近所では公開館がなく、高速バスに乗って都会まで観に行った記憶があります。初見は、監督にとって2作目となるストップモーションアニメーションの完成度の素晴らしさはまあわかるとして、とにかく台詞と情報量が監督の過去作と比べてもかなり多いので、設定などを整理しながら観ていたらついていくだけで終わってしまったという感じでした。その後近所で公開が始まったのでもう一度映画館で観て、ソフトで繰り返し観て、何となく自分の中でお話を咀嚼できたかなと思っています。とにかく『犬ヶ島』は、可愛いナリをしているのだけど、複雑なテーマを含め、色々なものがぎゅうぎゅうに詰め込まれている印象です。

『犬ヶ島』で、黒澤明監督や三船敏郎といった日本映画へのオマージュが存分に捧げられていることや、宮崎駿監督をはじめとするアニメーション制作者たちへの敬意、ストップモーションアニメづくりの大変さと面白さ、そしてアンダーソン監督の日本への愛みたいなものは、インターネット上で読める監督へのインタヴュー記事や、『The Wes Anderson Collection メイキングブック犬ヶ島』(フィルムアート社、2019年)などでも大いに語られています。

前述したように、私は映画好きとはとても言えず(好きだけどたくさんは観ない)、世界のクロサワ作品もちっとも観てないので、『犬ヶ島』やアンダーソン作品を映画史的な流れから見ていくことはできません。さらに映画史を踏まえていないことでこの作品の解釈も足りてない部分が大いにあるのですが、アンダーソン監督の過去作品と『犬ヶ島』を比較した場合に、いろいろ通じるものがあるなーと思っています。つまるところこの部分が、私がアンダーソン監督の作品全般に感じる魅力なのかなと感じています。


簡潔に言えば、「大人」の救い手となるのはいつも「子ども」であるということです。また『犬ヶ島』は、監督の過去作品と比較しても、自己と他者の異なる考えや価値観、文化、人種などの間で生じる「わかりあえなさ」について、コミカルながらもかなり直接的に表現しているように思いました。そしてお互いにわかりあうことだけが是なのではなく、わかりあえなさを超えた友情や愛情は存在するし、時にお互いのことを理解できないという事実も受け入れた上で、共存して必要があるということを、改めて深く考えさせられました。


『犬ヶ島』は近未来の日本、ウニ県メガ崎市が舞台です。いにしえの昔、犬たちは自由に「マーキング」をして繁栄していましたが、犬嫌いの小林一族は彼らを一掃するため戦争を起こしました。劣勢に立たされた犬たちでしたが、彼らを憐れんだ少年の侍が加勢し、小林一族の長の首をとることに成功しました。しかし少年侍もまもなく亡くなり、犬たちは結局小林一族に服従を強いられることとなりました。


そして現在のウニ県メガ崎市では、小林一族の末裔が市長となっています。メガ崎市では「ドッグ病」「スナウト病」という犬の伝染病が蔓延しており、これに感染した犬たちは飼い主たちの元からゴミ島へ移送・隔離されます。小林市長の縁戚で、数年前の事故で両親を亡くしたため現在は彼の養子となっている少年アタリには、スポッツというボディーガード犬がいましたが、スポッツもゴミ島に隔離されてしまいます。


犬たちは島で、ゴミと絶望にまみれながら、廃棄された残飯を取り合ったりしてどうにか生きています。物語の中心となるのは、レックス、キング、デューク、ボス、チーフという5匹の犬。それぞれに「君主」や「首領」などを意味する大げさな名前を持っていますが、チーフ以外は飼い主に従順な元飼い犬。一方で、ボディーガードなどと大層な仕事をしている犬がスポッツ(「ブチ」くらいの感じでしょうか)と庶民的な名前を持っているという対比も面白いのですが、それは置いといて。レックスたち4匹はゴミ島に隔離された後も、付き従うべき「ご主人様」を欲しがっていますが、野良犬上がりのチーフはそんな彼らを叱責します。そこに、たったひとりプロペラ機を操縦して、アタリがスポッツを探しにゴミ島へやってきます。4匹は新しいご主人ができたと喜びますが、チーフは「お座り」の指示にも頑として従いません。


本作では冒頭で説明されるとおり、基本的に人間は日本語、犬は英語を話します。とはいえアメリカ人監督が制作した映画ですので、日本語の台詞には同時通訳のような形で英語音声が重なる場面もあります。しかし基本的に、アタリと犬たちは、一方は日本語、一方は英語で話すので、会話が成立しません。そもそも人間と犬であり、言語でのコミュニケーションは成り立つはずもなく、犬たちが「彼の言っていることが分かればいいのに」とぼやいたりもします。


アタリの声を演じたのはコーユー・ランキンくんというカナダ人と日本人のご両親を持つ子役なのですが、彼の日本語は非常にたどたどしく、ぶっちゃけ棒読みです。というか日本語台詞は、日本人キャストを配置しているにもかかわらず、(プロの声優さんではないことも関係しているのかもしれませんが)全体的に棒読み気味です。また台詞自体も、前後で微妙に文脈が繋がっていなかったり、日本語のネイティヴ話者からすると少し違和感があります。公開時、皆さんの感想をTwitterなどで見ていると、日本人の鑑賞者からはやはりこの「棒読み」が残念だったという声が少なからずあったように記憶しています。


私は、このランキンくんの演技が非常に好きです。アンダーソン監督には、日本語はこういう風に聴こえているのかもしれないと感じたからです。例えば、英語しか話せないアメリカ人と、日本語しか話せない日本人が言葉でコミュニケーションしようとするとき、どうしても理解に時間がかかりますし、その解像度は決して高くないと思います。でもコミュニケーションというのは言葉だけに頼る必要はないわけで、身振り手振りであったり、目や顔の表情であったり、色々な仕草から感情をやり取りすることはできます。実際の人間と犬とのコミュニケーションにしても、犬は言葉を発しないので、人間は表情や尻尾の様子などを観察して、自分の希望も多分に含めながら、彼らとやり取りしていきます。そして基本的に、犬は人間に対して非常に忠実な動物です。



大人顔負けの勇敢さを持ちながら、少年らしく遊具(パゴダ・スライドという凶悪な急傾斜のすべり台)で遊びたがったり、犬に「お座り」や「とってこい」をさせたがるアタリの純粋さと棒気味なランキンくんの演技は、流暢な英語を話し下世話な噂話をしたりもする犬たちとの対比として非常に有効だと思うし、彼らの間に前提としてある「わかりあえなさ」を示しています。だからこそ、アタリの率直な「いい子だね」「ビスケット(あげるね)」といった言葉が非常に心に刺さります。何を言っているのか言葉としては把握できなくても、そのことを共有した上でのコミュニケーションを、アタリはいとも簡単にやってのけます。
過去のある出来事をきっかけに人間に対して臆病になってしまい、いつも斜に構えているチーフも、だんだんアタリに絆されていきます。元ショードッグのナツメグが言うように、本来的に「犬はこの年頃(※アタリは12歳)の子供が好き」なのです。


アンダーソン監督の映画では、そこそこの年齢で社会的地位もあるけれど、どこか欠陥のある「大人」のキャラクターがまま登場します。そして物語の中で「大人」が考えを改める、あるいは過去を乗り越えて成長する姿を描いていくのですが、その過程での「子ども」の果たす役割はかなり大きいです。



『ダージリン急行』(2007)でインドを旅する主人公の三兄弟は、最初のうちはインドの人々や習慣に対してどこか蔑むような視点を持っているのですが、旅の途中で現地の少年の死に触れて考え方を変化させていきます。『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014)に登場するグスタフ・Hは洗練されていて、周囲から尊敬されるホテルマンですが、見習いロビーボーイであるゼロに対して差別的な視点を無自覚に向けており、のちに考えを改めます。


『犬ヶ島』の場合、過去作と比較すると「大人」の役を担っているのは犬たちよりアタリの養父である小林市長かなと思います。犬を一匹残らず排除しようとする市長と、スポッツをただ大切に思うアタリとの間にも「わかりあえなさ」は存在するのですが、それをいかに超えていくのかは、ネタバレすぎるので書かないでおきます。アタリは、言葉が通じないはずの犬たちとは容易に信頼関係を築いていけるのに、一応は血縁であり、言葉でコミュニケーションできるはずである市長とはわかりあえていないことの対比もまた面白いと思うのですが、そちらはぜひ本編を観てみてください。Amazonでもレンタルできますので、ホリデイシーズンにぜひ!ヴォイスキャストも豪華すぎるんですよね。


いずれにせよ、彼らはお互いのすべてをわかりあっているわけではありませんし、彼ら自身もすべてをわかりあえるとは思っていないでしょう。それでも、「わかりあえなさ」を共有し、相手を理解したいという気持ちを諦めてはいけないのだと思います。


また無駄にだらだら長くなりそうなので、締まりがない文章ですが、いちおうここまでで。お読みくださり、ありがとうございました。


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