読書の楽しみ

「凍りついた香り」小川洋子著

彰(あきら)が、その真ん中に、洗った無花果(いちじく)を置いた。
私と彰が1個ずつ食べ、母親が6個食べた。


「凍りついた香り」小川洋子著

「弘之さんは、どんな子供でした?」

「賢い子よ。それに尽きるわ・・・根源的な賢さなの。
わずか4歳で、世の中の成り立ちを理解しようとしたの。自分なりのやり方でね」

「成り立ち、ですか?」

「ええ、そうよ。自分はどうしてここにいるのか、宇宙の果てには何があるのか、
ウサギのぬいぐるみのシロちゃんは、どこからやって来たのか・・・。
そんなことを考えていたの。首をかしげて不思議でたまらない、っていう目をしてね」


「在日としてのコリアン」原尻英樹著

ある「個」が成り立つ為にはそれではないものが必要なのである。
「純粋なもの」が存在する為には絶えず「不純なもの」が排除され、
「不純なもの」そのものが、いかにもそれだけで存在しているように
演出されなければならないし、「個」としてのアイデンティティが成り立つには、
その「個」ではない別のアイデンティティが必要になるといえる。
それがそのものだけとして成立するという考え方、つまり近代のアイデンティティ論、
それに「民族」の自明性、この両者に疑問符が打たれない限り、おそらく永遠に
「混血」は中途半端な状況に、おとしいれられ続けるに違いない。
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「在日としてのコリアン」原尻英樹著

朝鮮が日本の植民地にされる以前から女性は男性に従属させられていたが、
植民地になってもその状況はほとんど変えられず、
男性-女性の支配、被支配に加えて、
日本-朝鮮のそれがつけ加わったことになった。
さらに、これに貧富の差が付け加わるのであるから、
女性で貧しい生活を強いられていた人々は、
二重、三重の支配を受けていたことになる。


「アンネフランクの記憶」小川洋子著

はじめに

数多く残っているアンネフランクの写真の中で、わたしが一番気に入っているのは、
夏の海辺で撮られた一枚だ。
二人の少女がこちらに背中を向け、並んで立っている。
小さい方がアンネで、・・・

砂浜には影が二つ、寄り添うように写っているが、顔の表情は、わからない。
アンネは、まっすぐ頭を前に向けている。海水浴客の姿が遠くぼんやり見える。

それにしても、オットー・フランクはなぜ、子供達の後ろ姿など撮ろうと思いついたのか。

・・・なのにこの写真だけは、どことなく特別な手触りを持っている。
ふと目を離したすきに、二人が海の彼方へ吸い込まれてしまうのではないかという
微かな不安、・・・

彼女たちは何を見ているのだろう。・・・
けれど私には二人の未来、あまりにも短い未来、を暗示するものがそこに宿っている
気がして仕方ない。じっと見つめていると、カメラをのぞくお父さんを置き去りにして
二人が今にも歩き出して行きそうな錯覚に陥る。
「駄目よ。そっちへ行っちゃ駄目よ」と、私はつぶやくが、
彼女たちは振り向きもせず、砂浜に足跡だけを残しながら、遠ざかって行く。
・・・けれど私が本当に知りたいのは、一人の人間が死ぬ、殺される、
ということについてだ。

この写真は、拡散しようとする私の視点を、一点に引き戻す役割を果たしてくれるだろう。

26歳の時に新人賞をもらって以来、わたしは幾度も同じ質問を受けるようになった。
「どうして小説を書くようになったのですか」
「子供のころ、嘘のお話しを作って大人たちを驚かせるのが好きだったから」等など・・・

しかしいつも本質にまでは届いていない物足りなさを感じていた。

改めてじっくり考えてみて行き着いたのが、「アンネの日記」だった。
私が一番最初に言葉で自分を表現したのは、日記だった。
その方法を教えてくれたのが「アンネの日記」なのだ。

彼女が語る母親への反抗心や男の子へのあこがれや、大人に成長していく不安や、
将来の夢に対し、わたしはいちいちうなずいたり、慰めの言葉を掛けたりした。

すぐに私は、アンネの真似をして日記をつけ始めた。

13歳の誕生日を迎えて間もない1942-6-20日、土曜日の日記にはアンネはこう記している。

「私は書きたいんです。いいえ、それだけじゃなく、心の底に埋もれているものを、
あらいざらいさらけだしたいんです。
・・・わたしがなぜ日記をつけはじめるかという理由についてですけど、
それはつまり、そういう本当のお友だちが私にはないからなんです」

私の日記帳はやがて、気に入った詩の一節を書き写したページが登場するようになり、
そのうち創作まがいのものも出現し、


「在日としてのコリアン」原尻英樹著

「歴代の天皇の名前を暗唱している最中に鼻がかゆくてちょっとかいたら、
むちが折れるまでたたかれました。普通学校二年でしたから八歳の時でした」
と、カン・コチョル氏は語った。

善導とは皇民化を強制し「日本人」になることを強いることであるが、

「鮮人」「半島人」という蔑視は日常的に経験させられていたので、

一般的に人が「自らとは何者か?」という切実な問いを投げるきっかけの一つに
異なる人々との出会いが上げられる。これを「異文化との出会い」
とすると、朝鮮半島出身者は日々この「異文化との出会い」をしていた。
しかし、この出会いは単なる出会いではなく日本人から「非日本人」として
排除され、「鮮人」「半島人」というラベルを貼られることを意味した。

一般に考えられている「異文化との出会い」とは、異なる言語、
慣習等との邂逅であろうが、
植民地状況のなかで、序列化の伴わない「異文化との出会い」は、ほとんどありえなかった。

朝鮮での生活が苦しかったから彼らは日本に渡りゼロから生活を始めたのである。
これらの人々が、日本に来て、教養を身に付け余裕のある生活ができるはずがなかった。
食べるだけで精一杯で子供を義務教育へ行かせることさえ出来なかったのが普通だったのである。

見た目に貧乏、不潔、異様、これらの見た目で排除され、鮮人、半島人と名付けられた。
朝鮮が貧しかったのは日本の植民地支配だけが理由ではなかったろうが、
渡日して来た人々は廉価な労働力として使われた。つまり日本の資本主義によって
利用されたのである。

ただ、侵略されて苦労を強いられた人々と、侵略する国家を是認した人々の違いだけは
確認しなければならない。
正当な手続きで侵略国家を阻止できなかったのは日本国民一人一人が
背負わなければならない責任である。

残念なことに昨今の「自由主義史観」の人々の論調は過去の精算がないまま
自己欺瞞を続けてきた日本人の成れの果てを意味していよう。

「日本人」は明治維新後、政治的に創り出された概念であり、
太古の昔から「日本人」が存在し、
全ての人々の意識が「日本人」として共有されていたわけではない。
江戸時代やそれ以前となれば、国民意識はもちろん民族意識などほとんど共有
されていなかったことは想像に難くない。

例えば、日本文化の基準は何かと問われればまず即答できないだろう。

大半の日本人にとって朝鮮語は「奇妙な言葉」であり朝鮮人の慣習も「変なもの」
であったに違いないが、だからといって蔑む必要はなかったはずである。

脱亜入欧のスローガンの下、アジアを軽視し、欧米に追従してきた「近代日本」
の醜さがここにある。
実際、日本は、古くから中国や朝鮮と関わってきたのであるから、
アジアを低く見るということは自分自身を蔑むのと同じことである。

自分たちが見る側で、見られる側に、どのようなまなざしとして映るのか
考えられなかったのである。

この想像力の欠如は単に個人の能力だけに依るのではなく、
「チョウセンジン、みんなで差別すれば恐くない」といった集団心理とも関係している。

自分だけが相手を馬鹿にしないと、逆に日本人から排除されてしまう。

朝鮮人を蔑視し馬鹿にする事で「いい子」として評価されるのであるから、

日本人の間では、(朝鮮人は)自分たちより下の者という共通認識があったのであるから、

アイゴーもだめ、朝鮮の服もだめならば、
残っている選択肢は日本語に日本の服以外になかった。

ただ朝鮮人という理由だけで私を見れば暴力を振るう上級生がいた。

マイナスの朝鮮人イメージを作り出す日本社会の差別構造、


「アンネフランクの記憶」小川洋子著

アンネはリアルタイムで、日記を書き進めるのと同時に戦後の出版を夢見て
最初からの日記を書き直していた。登場人物を変名にし不必要な箇所は削除し、
大事なところは膨らませていた。

日記を偽物だと主張する人々の根拠は何なのだろうと、空しい気持ちで思う。
こんなややこしい鑑定を受けなければならない事自体、ある恐ろしさを含んでいる。

こころなしか、中身に押されて表紙がふくらんでいるように見える。
彼女の紡ぎ出した言葉たちが、あふれんばかりに詰まっている様子がうかがえる。

ブルーのインクが流れるようにページを埋めている。
すっかり大人の字だ。
柔かさよりも意志の強さを感じさせる美しさだ。
書いても書いても込み上げてくる言葉たちを、ただひたすらに刻み付けていった、
そんな雰囲気が伝わってくる。

ミープさんは、淡々と話す。
誰か他者を非難することによって、自分の正義を押し付けようとはしない。
どんな聞き方をしてもただ、当然、を繰り返すだけだ。

「ミープさんは不正を見分ける知性と、それに立ち向かうエネルギーの
両方を兼ね備えていらっしゃいますね」

わたしは、アンネフランクのパンフレットに、建物の構造上、老人や
身体の不自由な方々の見学には不向きなことをご了承ください、
という一文があったのを思い出す。

子供と見なされれば、すぐにガス室行きだった。

一つの例外も許さない、決められたとおりの、なかば無意識の繰り返しは・・・
人間を選別し、ガス室へ送り込むのは、彼らにとって規則だった。
つまり彼らはポプラを狂いなく植えるのと同じ几帳面さで、人を殺していった。

「ですから戦後、彼らはさまざまな言い訳をしました。
自分はただ人間をここからあそこへ運んだだけだ。
自分はただ見張りに立っていただけだ。
しかも上から命令されてやったんだ。
これはごく一部のエリート(=知識人)の犯罪であって、
自分は何も悪い事はしていない・・・」

全員、縦縞の囚人服を着せられ、髪の毛を剃られている。

写真に於いてもやはり、「見事な」規則化が見られる。
すべてが統一されているのである。

やはりナチスのやり方は徹底されており、バラックの並び方に
わずかな狂いも例外も見られない。
完璧な整然さが全体を支配している。

「赤ん坊は壁に投げつけて殺されました。
銃弾を節約したかったからです」

ギヨルクさんは、10歳の少年でありながら、既に時代の矛盾を感じ取り、
それに対応する手段として絵を選んでいた。
アンネが日記を描くように。
あの時代の心の痛みを少年なりの感受性で表現した絵がたくさんある。

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