平等という語には2つの意味がある

人類は平等という言葉を誤った意味で使っている。
「人間は皆平等・・・」
これには、人間は、外から見れば、「みな人間である」と判断できるという
可視的(=見た目)、物質的、科学的意味の平等を言う場合が1つ。
つまり、計量できる平等の意味。

あの人と、この人は、給料が違う!
だから平等ではない!
といったようなことがある。
ケーキを平等に分ける、といったような平等の意味です。

しかし、フランス革命やフランス国旗の意味する平等とは、
そういう平等ではなく、
民主主義的平等の意味を本来、持っているはずだった。

ところが人々は社会主義的平等の意味に取る人が多くなってしまった。
つまり、旧ソ連のような平等、共産主義の平等、マルクス経済の目指す平等、
(=お金の平等)
が、人々の認識として広がっている。

この平等のイメージは、間違いである。

なぜならば一方で、
「人はみな違う」と言われ、
その意味は、
「人間の考えていることは皆違う」
という形而上学的意味がある。

即ち、人はみな同じであり、人はみな違う、ということになる。
だから平等という語も、それぞれに当てはめて、2つの意味に使われることになる。
社会主義者は「人はみな同じ」を主眼にし、
民主主義者は「人はみな違う」に主眼を置く。

だからこそ世界は、社会主義対民主主義で対立する。

民主主義的平等とは福沢諭吉の言ったように(或いはリンカーンが言ったように)
社会参加権の平等だけを指している(一票の平等だけを指している)

「人はみな違う」は、多様性である。
だから、結果的には人間世界は金持ちも乞食も居るが、
金持ちでも乞食でも社会権力参加権としての一票の重さは、平等に持つことが
できるというのが民主主義理念です。
(これを国民主権という)
だから、金持ちが偉くて乞食は偉くない、という不平等は、民主主義社会では無い。

民主主義社会では、偉い人と偉くない人という概念が無い。
(これを「万人は平等」であるという)

社会主義こそが、偉い人と偉くない人を作る。
偉い人が偉くない人を指導する社会。上下がある。
日本がまさにこれだ。
官僚が国民を指導する社会主義になっている。

日本では官僚が一番偉い国。
国民ではありません。偉いのは。
(社会問題決定権について、上下があります=平等ではない)
国民の上に官僚がいる。
だから「お上」という言葉がある。

だから日本は、民主主義であるはずがない。
ここのところが、支配されている国民の側に「認識」がない、という問題が
先ず有る。

(認識とは物を正しく捉える能力。
認識能力が無いと嘘を信じることになる=騙される。
宗教でだまされる人とは、自分で考えずに教祖の考えに従ってしまう人)

結局、日本教とは、「官僚の言っていることは正しいよ」教の信者になっていることでは
ないですか?

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