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メタバースが来るって具体的にどういうこと? リアルやデジタルやVRやARの話

バーチャル建築家の番匠カンナです。すごく久しぶりにNoteを書くよ。

2021年秋、すでに「またか!」感があるほどメタバースという言葉がバズワード化して、同時にVR/ARに関わってきた多くの人がそれぞれの意見を表明している。
私自身は、メタバースの捉え方は人それぞれで全然良いと思うので、メタバースの定義はここではそんなに重要じゃなくて。
大事なのは、これから何が起きて、そのとき自分(やクソデカ主語化すると人類)はどうする?ということだと思うので、ちょっと長めになるけど、最近思っていることを書いてみようと思う。

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メタバース以前と以後でかわるもの

定義は重要じゃないと言ったそばからメタバースを(このNote内での使用のために)定義する!

ざっくりと、

「人間とデジタル世界との関わりが2次元平面上での体験から3次元空間での体験に変化することによって起きる、さまざまなものやことの価値の転換が、社会的に一定値を超えたあとの世界」

といった意味で使っていきます。
単に「メタバース=人が生活しているVRSNS」とするなら、それはこれから来るんじゃなくてもうすでにあるので、ここではもっと話の射程距離が伸びそうな定義で進めます。


さて、大まかにインターネットの登場以降、世界には、

A: リアルに価値の源泉があるもの/こと
B: デジタルに価値の源泉があるもの/こと

の2つが存在することになりました。
ただ、デジタル世界は2次元の「窓」を通した先にしか存在しないため、リアルとデジタル2つの世界は、互いにそれなりに深い影響を及ぼし合いながらもゆるやかに分離した状態が続いていた。

メタバースが到来すると、これが次のように変化する。

A-1:リアルに価値の源泉があるもの/こと
A-2:デジタルに代替・拡張可能なもの/こと
B:デジタルに価値の源泉があるもの/こと

デジタルとの関わりが3次元空間上の体験に置き換わることで、リアルとデジタルの境界が溶けて、その最大の変化として「A-1→A-2への移動」、つまりリアルに価値の源泉があるもの/ことのうち、さまざまなものがデジタルに代替されていく。


A-2の例をみっつあげてみる。


水槽の魚

VRChatに存在するヨツミフレームさんの狂気に満ちたVR作品「PROJECT: SUMMER FLARE」に登場する水族館の魚群を見たとき、あまりの美しさにしばらく見惚れてしまった。
と同時に「ペットとしての比較的単純な生物は、すぐにデジタルに代替されるな」と強く思った。
もちろん価値のありかはひとそれぞれで、アクアリウムの醍醐味はよい機材や水草や流木を集め、コツコツと手塩にかけて美しく育て上げることにある、という人にとっては、簡単にデジタルに置き換わるものじゃない。
でも、大多数の人が「世話や掃除が一切いらなくて、どこにでも設置できて、見ていて癒やされれば良い」と考えれば、A-1→A-2の移動は容易に起こる。
それに、面倒から開放されるだけではなく、バーチャルな魚群は、見たことのない美しい形、トレイルやパーティクルによる運動の美しさの可視化、閉館した油壺マリンパークの魚ショーでもできないようなインタラクションも取れる。音楽をかけたら雰囲気に合わせて踊るように泳ぐかもしれない。流行りそう。


本棚と本

2021年の人類は、物理本と電子書籍の両方を、それぞれの好みや場面ごとの使い分けを行いながら共存させている。リアルな書店とAmazonも共存している。
これもひとによって価値のありかは違うけど、多くの人が「部屋が狭くならずホコリもたまらず壁に自由に設置できるデジタル本棚」「離れた位置から手に取れて自分の視力に自動調整されて付箋も貼れるしワード検索もできるデジタルな本が良い」と考えれば、A-1→A-2の移動は容易に起こる。
本棚にずらっと並んだ壮観や、たまたま目に入って手に取る偶然の出会い感、ページをめくるときの感じ、人に本を手渡しするコミュニケーション、なんなら放り投げる、破く、といったリアルならではとされていた価値が今後デジタルでも遜色なく再現・代替できていくとしたら、それに応じて、人類がA-1に留まる理由は減っていく。


CD,レコードとサブスクリプション

私はApple Musicを使っている。手軽に聴けて、簡単に新しい音楽を探せて、とっても満足。
…だがしかし!
唯一気にかかることがあり、それは「私のこの厳選ライブラリ()をどう子に引き継げばいいの?」という悩み。
音楽家の親のもとに育った私は、現代音楽を掻き鳴らすピアノの下にある空間で爆音を浴び、そして部屋の棚にあったクラシックのCDを拝借するところから音楽が好きになった。当時のお気に入りはドビュッシーの「海」だった。そしてこの経験は、その後あらゆるジャンルにおいて古典より近代以降にまず興味を持つ性格を形成しているっぽかったりする。
一方、2次元の窓の向こうのサブスクリプションには、このような、意図せず目につく身近な場所で、受動的に誰かのコレクションに出会う機会がない。「ワシの目利きの厳選コレクションだ受け取れい!」っアカウント譲渡とかいう露骨で押し付けがましいやりかたではなく、結果として自然とそこにあったがゆえに偶然に起きる引き継ぎ。
実は、空間があることによって知らず知らずのうちに享受している豊かさや便利さはたくさんあって、部屋や棚という3次元存在にも、アプリケーション上にAtoZで並ぶ曲リストとは違う整理法/インターフェースとしての機能をもっている。
こうした3次元空間が持つ機能を丁寧に観察して紐解き、さきほどの本棚の話と一緒で、デジタルが徐々に、より豊かな方法で実装していくとしたら。


もっと色々考えられるけど、以上身近なところで例を出してみた。


じゃあ私(人類)はどうする?

しばらくのあいだ、A-1→A-2の不可逆移動はとくにリアルを重んじる世界から「収奪された」とネガティブに捉える動きがあるかもしれない。(私のいた建築界なんか特にありえる分野だと思う)
でもそう文句を言っていても時代はどんどん進んでいく。どうしよう?

うん、ちょっと言い切ってみよう。えいや。

これまでリアルに立脚していた者が取るべき道はふたつ。

建築に例えていうと、

1)リアルとデジタルが3次元空間のうちに溶け合った「メタバース」で、A-1/A-2/Bをすべて分け隔てることのない「建築」の概念をもう一度組み立て直す道。
2)メタバース以後もなおA-1に残る価値をしっかり見定めてリアルな建築を建てる道。

これはどちらが優れているということはなくて、ただどちらにしても、いま起きている変化をなるべく近くで知っておかないと、気づいたら古びたことをやっている人になってしまう。


一方、デジタル側に立脚している者にとっての道もふたつ。

XR事業者やXRクリエイターに例えていうと、

1)デジタルでしか成立しない価値をとことん追求するBの道。
2)リアル側にある価値をデジタルで拡張するA-2の道。

これ、誤解を恐れず極めてめちゃくちゃに暴力的にいうと、

①がVRで、②がARである。

VRとARはひとつになる?

VRとARは、XRとまとめられたり、MRという概念でシームレスに接続されたり、どこか将来的につながるような印象があると思う。実際、VRHMDがパススルー機能を重視しはじめたり、Varjo XRシリーズがイメージと実践で示して見せているように、技術的にも近づいていっているように見える。

でも、VRとARでは、根源的に目指している価値観が違うと思う。わかりやすい例でいうと、Niantic社がMeta社を意識して “The Metaverse is a Dystopian Nightmare.” とちくちく言葉、というかぐっさり血まみれ言葉を使ったように。(ただ個人的にはNiantic vs VRChatのほうが鮮烈な対比になると思う)


VRとARはなにが違う?

まず単純に考えて、
ARで空は飛べない、VRでは空を飛べる。
これは大きな違い。ここから、

ARはリアルに根ざした人間生活をより豊かにするもの
VRはときに人間をやめて完全なる別世界を楽しむもの

といえるかもしれない。こう書くとVRはドラッグ感あるねやっぱり。


あるいは、
距離を超えてARで集まる、距離を超えてVRで集まる。
同じように見えて、

ARで集まった人々は同じ場所にいない。
VRで集まった人々は同じ場所にいる。

これも違う。ARは(そもそもリモートよりは現実に一緒にいるほうが得意なことはさておき)人や情報を相手のいる場所に転送する部分的なPresenceなら可能でも、VRのようにみんなが完全に同じ時間と空間に存在するCo-Presenceにはならない。


あるいは、アバターについても、

ARは本人のままでもできる。
VRは必ず何かしらのアバターが必要。

違う。もちろんARがアバターと結びついたり、フェイストラッキングでお化粧したりはあるけど、VRほど完全に別の身体を必要とはしない。
VRではアバターやその操作がとても重要で、たびたびプラットフォームごとの違いが称賛されたり非難されたりが起きる。例えば、Meta社が上半身だけの本人をデフォルメさせたようなアバターを使うことに、日本のVRユーザーが違和感を持ったりする。
ちなみにこの違和感は、日本のVRユーザーの多くはVRをもっと濃密な情報のやりとりの場(≒人生を生きる場)だと考えているのに対して、Meta社は伝達する情報量を絞って良いと考えているから「表情・手振り・声」で過不足がないと考える、その違い。日米の文化の差が一番の理由なのではなく、場でやりとりしたい/させたい情報量に対する考え方の違い。

VRでもARでも、リアルでも同じことは?

話がちょっと逸れ始めたけど…
というように、VRとARはけっこういろいろと違う。

この違いは、VRから始めて今のところVRについて考えることの多かった私自身も実感するようになってきていて、「これほんとうにVRでやる意味ある?」という太古より繰り返し飛来する顔見知りの友達のような問いの他に、「これを目指すならARのほうが向いているのでは?」という新しい問いにもぶつかることが多くなってきた気がしている。

VRとARは別の価値観の上に成立しているように私からは見えるので、今後もひとつに融合することはなく、いい意味で距離を持っていくと思う。

ただ、それでも両者に確実に共通することがひとつあって、いや両者というよりリアル、VR、ARのすべてのものづくりに共通することとして、

「3次元空間の価値」を改めて紐解くことが重要だということ。


そして、そのとき参考になるのは、現在や過去や空想の中に存在したすべての空間だということ。たぶんこれ。

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以上、最近考えたことを、メタバースに絡めて書いてみました。

おわり

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