見出し画像

【#観劇レポ】滞在先、月の荘、備忘録。

8月12日、18:47。揺れ、走り始めた帰りのバスの中で、わたしは、亡くなったふたりの祖父のことを思い出していた。

日穏-bion-第15回公演『月虹の宿』観劇。
日穏の作品を見るのは第12回公演の『オミソ』以来で、久しぶりのリアルで自然で素朴な舞台を観られるのが楽しみだった。

結論から言うと、ボロボロに泣いた。それはもう、ボロボロに。専門学校の講師でもあった杢元さんの投稿を見て、予備のマスクを持っていったが正解だった。

柴田理恵さんのお芝居は力強く、また繊細な悲しみがもろに伝わってきてしまって、また岩瀬顕子さんの演じた真希さんの考えも分かってしまって、「分かる、確かに分かるんだけど…」と、観劇中何度も思った。

それでも悲壮感に溢れていたわけではなく、全体に家族や、ご近所のあったかさが満ち満ちていて、田舎育ちのわたしはどうしたって共感し、笑い、泣いてしまった。

死生観だけでなく、家庭環境や、ジェンダーや、人間にはいろんな問題がある。
人間って大変だな、考えること多すぎでは?

でも、それを個人個人で考えた上で、受け入れられず、理解できなかったことでも、加代子姉さんのように、「理解できずとも理解する努力、受け入れる努力」をするかどうかなのかもしれないな、と思った。
わたしも、常に理解する努力、受け入れる努力を惜しみたくはないな、とも思った。

専門同期のたねむら、めっちゃ頑張ってた〜!15歳で、お母さんが自分に相談もしてくれずに、ひとりでそんなこと考えて、選んでしまっていたら、それはそうなるよね。ってめっちゃ思ってしまって、凛ちゃん側の気持ちも、わたしにはすごく分かったから。
たねむらも1年前、すごく残念そうにしてたから、今回無事に上演できて、観る側としても安心した!よかった!

先述のとおり、1年前から待ち続けた作品だったけど、なんだかんだで、わたし自身は、「今年観れてよかった」と思った。なぜそう思ったかは下に書きます。

今年だからこそ、絶対観に行きたかった。
観に行ってよかった。





ここからは、わたしの最近の備忘録になる。
読む必要がないと思った人は読まなくて良い。
並びに、すこ〜しだけ『月虹の宿』のネタバレになってしまうので、それが嫌な人も読まなくて良い。

わたしが、日穏の『月虹の宿』を観て感じた、ああ、これを書くのはこのタイミングかもしれない、という漠然とした直感によって、書いておきたいだけだから。




わたしはここ最近、『死』とは、また『死ぬ』とはどういう感覚なのか、よく考える機会に恵まれている。

去る4月2日の朝、実家の祖父が亡くなった。
間質性肺炎という、難しい病気だった。

脱衣場で珍しく座って着替えているところを見たり、父や祖母は「咳き込んでいるところを見た」「畑仕事をしていたときもどこか苦しそうだった」と言い、「病院に行った方がいいんじゃないか」と祖父に提案しても、本人は何も言わなかった。
本格的に苦しくなってきたらしかったときにはもう遅く、レントゲンで見た祖父の両方の肺は、2/3くらいが、もう真っ白になっていた。

この時勢のこともあり、面会もあまりできなかった。顔を見たときの祖父はいつも苦しそうで、鼻や口に酸素のホースが移動した。
もがいて外してしまうかもしれないということで、マスク型のものではなく、チューブで酸素が運ばれていた。最後の方は吸入器の最大5リットルをフルに稼働させられていた。

咳と痰が喉にからんで、声は次第に出なくなっていった。常に喉や口に酸素の風が入るのか、いつも「喉が渇いた」とジェスチャーをしていた。ただの水ではなく、とろみをつけた水でないと飲めないから、看護師さんに伝えて、飲ませてあげていた。

入院中、「いい人生だった」と言ったこともあったらしい。祖父はもうそのとき、真希さんと似たようなことを考えていたのかもしれない。
頭のどこかでは「祖父はもう長くない」「治らないだろう」とは分かっていても、わたしはまだ祖父に生きていてほしくて、「元気出してな」「家のことは大丈夫だで、じいちゃは治すことに集中してな」と何度も伝えた。でも、苦しそうな祖父を見ているのはやっぱりつらくて、「もう頑張らんで良いに」と何度も伝えたくなってしまった。



病院の医者には、それとなく「特効薬や有効な治療法は無い」と言われた。つまり「できることは無い」と言われたのだ。
抗生物質を打つという、気休めみたいなことくらいしか、あとはもう、モルヒネを打ってできるだけ苦しくないようにしてあげることくらいしかできないようだった。



誰にぶつけて良いか分からない不安や、悲しみや、怒りでいっぱいだった。

加代子姉さんのように、医者に「あんた医者なんだろ?」と言いたい瞬間が山ほどあった。



見殺しにしろって言うんですか。わたしのおじいちゃんを。
じいちゃが死ぬのを、そこで指咥えて黙って見てろって言いたいんか?

あんた医者だろ。
医者なら治せよ。
病気を治すのが仕事だろ、それを諦めるのは怠慢じゃねえのか、え?仕事しろよ。


医者が精一杯頑張ってくれたのは分かっているが、何もできない自分にも腹が立って、どうしようもなかった。

もう打つ手は無い、ほどの重症で入院した祖父は、1ヶ月と1週間以上も耐えてくれた。

本葬の2日後。入院を勧めてくれた、祖父のかかりつけの町医者を訪ねたが、「僕が診た時点でもうおじいさんは重症だったし、1週間保つかどうかくらい、長くないんじゃないかなとは思っていたんだけど、1ヶ月は頑張ったね」と言ってくれた。

それでも、祖父は、本当にそこまで生きていたかったのだろうか、と、わたしはふと考えてしまう。
なんでこんな苦しい思いを、ずっとしなければならないのか。もう疲れた、もう嫌だ、と思ったことが、祖父は一度として無かったのだろうか。

わたしにはどうも、そうは思えないのだ。



真希さんが『死にたくて安楽死を選んだわけじゃない、生きたくても生きられない人がいる』と思っているんだ、と感じたとき、わたしはひとり、専門学校時代の友人と、もうひとり、母方の祖父のことを思い出していた。
専門時代の友人のことはあちこちで書いたので、今のところはやめておく。



母方の祖父は、母曰くめちゃくちゃ厳しくて、殴られたこともあったらしいが、孫のわたしたちにはめちゃくちゃ優しかった。

どこか世話焼きなところがあって、小さい頃のわたしたちが夏休みに母の実家に行き、朝起きてきて顔も洗わずにいると、濡らしたタオルでぎゅむぎゅむとちょっと乱暴に顔を拭かれた。

ちょうど、加代子姉さんが凛ちゃんにしたみたいに、ちょっと強めに。

ちょっと目の荒いタオルでそれをやられると顔がヒリヒリしたのでわたしはちょっと嫌だったが、同時に「世話を焼かれているのだ」と嬉しくも思っていた。


足が弱く、わたしが専門学校にいた頃にはほとんど歩けなくなっていた祖父は、近所のスタバでわたしがカフェ・モカとジンジャーブレッド・ラテを買ってきたとき、しきりに「…それは何だ?」と聞いては、わたしが「これ?スタバのコーヒーだよ」と答えると何か含ませたような顔で「…ふ〜ん」と返事して、もしかして飲みたいのかな、と察したわたしが「…飲む?」と聞くと即座にこくりと頷いていた。祖父のそんな様子が面白くて、可愛かった。

祖父はスタバが好きだった。祖父と祖母と、母とわたしと姉と妹で出かけても、スタバを見つけるとそこに入ってコーヒーを頼んでは、わたしたちを待っているのだ。


そんな祖父も、ネフローゼ症候群と肺炎の合併症で亡くなった。コロナ禍の最中、病院でひさびさに見た祖父は、今までの面影が無いほど痩せ細っていた。
背が高く、恰幅もまあまあ良かったはずの祖父の足は、痩せぎすの女の子のように、それよりもひどかった、細くなっていた。

そんな祖父を見舞うのが2回目の姉は、すぐにベッドのそばまで近づいたが、わたしは近づけなかった。なぜか、近づけなかった。

酸素チューブを繋がれて、半目で白目を剥いたりしていたから意識も朦朧としていたはずなのに、祖父は、病室の入り口で突っ立ったままのわたしに向かって手招きしてくれた。

手招かれてやっと、よたよたと近づいたわたしの手をしっかり握った祖父の手は、体温が下がり冷たくなっていたけれども、変わらず大きく、綺麗な手をしていた。わたしの手のかたちは母方の祖父譲りで、祖父は男の人にしては、細くすらっとした綺麗な手をしていた。



母方の祖父の葬式には、ごくごく身近な家族だけということで出席はできなかった。
見舞いのとき、母が「また会いに来るで、もうちょっと頑張るんだに」と言ったとき、どこか泣き出しそうな顔で、弱々しく首を横に振った祖父を思い出した。

真希さんの病や、安楽死のことを話す表情に、母方の祖父を思い出したのはそのせいもあったのかもしれない。
祖父はもう、疲れてしまったのかもしれない。
あのとき、祖父はもしかしたら、「こんなにチューブに繋がれてまで生きていたくない」と思っていたのかもしれない。

母や姉や、わたしも、そのときふっと笑って、「そんな弱気にならないで、頑張るんだに」と言ってしまった。まさか、あの気丈で強気で、しっかりした祖父が、「頑張れ」という言葉に、いやいやをするように首を横に振るとは思わなかったから。あのとき、わたしたちは無意識に、祖父にプレッシャーを与えてしまっていたのかもしれない。


そんなわたしも、以前からなんとなく、「30歳までに死ねたらな」と思っていた。別に悲壮感たっぷりというわけではなく、なんとなく、未来が明るいか分からないし、長生きしても楽しいか、分からないから。
人生の前半戦にほぼほぼ楽しいことを経験してしまい、大切な友人と、家族を亡くしたわたしに、果たして楽しい未来が待っているのか。

でも、生きられているのに、やりたいことないの?と、今回少し、自分自身に思った。
田部さんが、真希さんに怒られたみたいに、わたしも、生きられているのに、やりたいことをやらないってどういうこと?

まあ、楽しくて、唯一無二なことは確かに経験したけれど、やりたいことを目一杯できたかと聞かれると、そんなことないし。やっぱり30歳とかやめて、もうちょっと、やりたいことやろうとしよう。頑張ろう。
生きたくても、生きられない人がいる。この世の死生観うんぬんではなく、わたし個人としては、生きることを、もう少し頑張ろう、と思った。




亡くなった方が残してくれるものは、意外と多い。

月虹の思い出。小さな下駄。変な味のお菓子。幼いのにしっかりした、かわいい娘。自由な考え方。少し寂しいけれど、明るい別れ。

わたしの手のかたち。しっかり握った手の感触。ヒリヒリした顔の記憶。シェアしたコーヒーの味。喫茶店のモーニングと、シュークリーム。1歳の頃のわたしたちの写真で作ったカレンダー。

わたしの足の、薬指のかたち。立派な家。小さな頃、長い足の胡座の中に座っていた記憶。お寺さんで買ってくれた数珠。お守りにくれた謎の大きな50円玉。舞台で使わせてもらった服。





残してくれたものを大切に、わたしは過ごしていく。きっと、月の荘の人々も、そうだろうと思う。
月虹。わたしも、2、3回くらいしか見たことがない。でも、今度見かけたら、なにか願い事をしてみようと思う。
なにを願おうか。
今のところは決めきれないけれど、でも、もし叶うなら、願わないともったいないから。まず願わないと、叶うものも叶わないし。




みんなに観に行ってほしい。そして、本当に大切なものとは何なのか、気づいてほしい。
失ってから気づくんじゃなくて、失う前に気づいて、後悔しないようにしてほしい。自分にできること、自分のやりたいこと、どれだけでもやってほしい。

そして、たとえ「自分には相手の考えが理解できない」と思ったとしても、その考えを受け入れる努力と、理解できなくても、理解しようとする努力は、してほしい。

同じ人間同士なのだから。
人間は、そうやって生きて、みな死んでいくのだ。



昨日は迎え火を焚いた。妹は、背後を通り過ぎる誰かの気配を感じたという。ご先祖様たちに混じって、祖父も帰ってきたのだろう。
8月14日、19:06、新盆、思い出話に花を咲かせる親戚たちの笑い声が座敷から響く中、今日も迎え火を焚き、従兄弟達と焔のゆらめきを見つめながら、筆を置く。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?