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小説『琴線ノート』第10話「儲け物」

仮歌とは何なのかを知るべく父の仕事部屋へ向かう
分厚い防音扉に耳を寄せ音が鳴っていないか確認し
これまたゴツい扉のハンドルをガチャリと上げる

「どうしたー?」
パソコンに向い背を向けたまま呼びかける父
母は仕事の邪魔はしない性分なのか興味がないのか
仕事部屋に滅多なことで入らないので
入ってきたのが私だとわかっている

「仮歌ってなに?」
唐突に聞く私に父は顔をこちらへ向けた

「“仮“の歌だよ。字そのまま」
何かを悟ったようにあえて“そこじゃない“事を
意地悪そうな顔をして答える父

「作曲をする人に仮歌をお願いされたんだけど
そもそも仮歌って何をするのか分からないから
聞きたいんだけど」

母曰くフリーランスで色んな人と仕事をする父は
対面する相手の思考を読むのが得意らしく
私がなぜ聞いてきたかの理由も
何となく勘付いているのだろう
だから素直に話してしまう方が話が早いし
まともに答えてくれるのでちゃんと聞いてみた

父はちょっと考えるように顎に手を当て
一転ちゃんと答えてあげるモードになって
仮歌に付いて話し始めた

「仮歌は本当に仮の歌だよ。二種類の用途があって
一つは歌手が人に作ってもらった新曲を
覚える時に覚えやすいように他の誰かが先に歌って
録音しておくものが仮歌ってやつだ

もう一つは作曲家がアーティストやレコードレーベルに
自分のデモ曲を提案する時にその曲を聞く相手が
イメージしやすいように録音しておく歌だ
こっちは“デモ歌“ともいうけどな

先に言った方の仮歌はそれを聞く歌手も
歌い方やニュアンスも参考にしたりして
作品に割と影響するからその道のプロがやることが多い

話を聞く分にお前が頼まれているのは後者の方だろ
そっちは作曲家が作った曲がどんな曲かが
提案先に伝わればいいからハードルは高くないぞ

ちなみにお父さんの仕事も仮歌を入れてくれる人に
かなりお世話になってるんだよ
今は予算があるからプロに頼むけど
駆け出しの頃は結婚する前のお母さんが
歌ってたこともあるぞ」

最後の話にとてつもない興味が注がれてしまったけど
今はそれが自分にできるかを聞いておかないとと
気持ちを抑えて聞き返す

「私にできることなのかな?」

「曲を聞いて覚えて歌えるなら誰にでもできる
カバーもたくさんやってるんだろ?
ただこの世にまだ出てない曲を初めて歌う訳で
メロディーの歌い方を自分で決めないといけないから
センスは割と必要かもね」

マジか
急にハードルが高く感じてきた

「ま、まともな作曲家だったら歌い方もこだわりがあって
こう歌ってくれってリクエストも来るだろうから
その通りにすればいいだけよ」

そのリクエスト通りにできるかが心配なのだが?
それは置いておいてもう一つの疑問を答える

「どこで歌うの?スタジオとか?」

「デモ曲の仮歌なら予算かけられないから
今の時代みんな自分の家で録るんじゃないか?
いわゆる宅録ってやつだ
作曲家の作業場に出向いて指示を受けながら録るか
最近よくあるケースだと仮歌を歌う人が自宅で録って
データでやり取りする方法
これならお互いが都合のいい時間にできて効率がいい」

「私自分で録音できない、、そもそもマイクもないし
ここのマイクをお借りすることは・・・」

「ダメ。ここのマイクは高価で扱い難しいから
まあ宅録は環境がないですって言えば
相手側が考えることだから気にすんな」

仮歌というものについて聞ける人が
父しかいないとは言えベテランの意見も混ざって
何とも難しいものの気がしてきたけど
とりあえず仮歌がどんなものなのかはわかってきた

「まあ、作曲家も初めてお願いする人の場合
相手の録音環境もあるかないか先に聞くし
“いい歌だったら今後も頼めて儲け物“くらいにしか
思ってないからあんま気負わなくていいと思うぞ
そんなことよりも何事も経験よ経験」

父がそこまでいうと父のスマホに着信があり
父は対応しながら私を手で払った

“いい歌だったら今後も頼めて儲け物“
それくらいならいいかな
私にとっても
“いい経験だったら儲け物“なわけだし

その夜私は小川奏多さんに
私でよければお願いしますと返信を打った

次回へ続く

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