見出し画像

小説『琴線ノート』第18話「共有」

目が覚めると昼の12時を回っていて
久しぶりにすっきりとした目覚めだった

昨夜0時が締め切りのデモ曲をギリギリで提出し
長時間椅子に座っていたせいでバキバキになった体を
引きずりながら深夜2時まで営業している
スーパー銭湯に駆け込み最近ハマりつつあるサウナで
気持ちも体もリセットする
これが最近のルーティーンだ

先方の楽曲コンペの締切はなぜか午前0時が多い
なのでデモ曲を提出した後に誰かと食事に行ったりは
時間的に厳しいから一人でもリフレッシュできる
スーパー銭湯が心強い味方になっている

昨日はその後に発泡酒を何本かと牛丼のテイクアウトで
一人打ち上げして朝方に寝たんだったっけな
まったくもって自由業らしい所作だ

2リットルの水のペットボトルを掴んで机横の
ミニテーブルに置いてパソコンの電源を入れると
デスクトップには昨日完成したデモ曲に目が入った

「snow_bpm116_KanataOgawaDEMO.mp3」

タイトル、テンポ、作曲者の名前をつけるのが
自分が提出するところのルールだ

この曲は作っているときに散々聞いてはいるが
改めてニュートラルな気持ちでどんな聞こえ方か
または反省も兼ねてもう一度再生する

「窓から見える雪の向こうに
君との思い出が浮かんでいる♪」

ヒナ太の優しい表情の歌声が
楽曲の表情を豊かなものにしている
あのあと音程の悪かった部分を
ピッチ修正ソフトで直したが
直しすぎると歌声の表情が消えてしまう感じがして
必要最低限の修正だけになった

自分の歌の時はピッチとリズムを完璧に合わせて
やっと他所様に聞かせられるレベルなのだが
良い歌の時はそれじゃダメなんだと勉強になった

ヒナ太の息遣いがちゃんと聞こえるように
リバーブを少なめにして仕上げたけど
“冬の曲”というお題に対しては歌声がドライ過ぎる
また一人で盛り上がってお題から外れたのは
反省すべき点だよまったく

でもヒナ太の歌が楽曲の良さを倍増させているのは
間違いないと思えるくらいハマっていて
やっぱりその歌声が好きだと思った

ヒナ太にも完成したデモを聴かせてあげようと
ダウンロードは出来ないストリーミング専用の
サービスの限定公開で彼女にデモ曲が聞ける
URLを送った
いちいち手間のかかる方法で送ったのは
建前上“相手に保存ができないようにするため“だ
万が一楽曲が採用された時にこのデモが
発売より先にどこかで広がってしまうと
非常に問題になるわけで
採用の可能性が低いにしても備えておく方が良い

それでもヒナ太に聞いて欲しいと思ったのは
この曲の出来上がりの良さを共有したいからだった
彼女も初めての仮歌の出来上がりを
気にしているだろうし

また歌いに来てくれるだろうか
そんな風に思いながらメーラーを開くと
先方からデモ曲の受領の連絡と
新しい楽曲募集のオーダーシートが届いていた

今日からまた新しいデモの制作が始まる
作って作って作り続ける生活は
まだまだ始まったばかりで終わりが見えない

それでも続けられるのは音楽が好きで
仕事にしたいという思いと
今回のような刺激をもらえるからなのだろう

ヒナ太も作曲はできるようになるだろうか
彼女の曲もできたら聞いてみたいと心から思いながら
ギターを手にしていつものように作曲を始めた

次回へ続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?