目的は分断を生み出すのか。

オンラインお手伝いの拓海くんと話をしていて私が痛感したのは。
「若者のメンターが、必要。」
ということ。

この社会がどこに向かっているかをリバースメンターに教わりながら、私が実践してきたことを伝える。そんなやりとりが必要だと思いました。

今回拓海君と話して気づいたのは「活動を続けていると、問いをたてることが難しくなる」ということでした。何故か問われることは、自分の願いに気づくこと、そして「もっとこうしたい」と願いを育てる機会になるように感じました。

居場所を立ち上げたときの想いがあり、活動を続ける中で葛藤して選択をし続けることで自分たちのやり方やあり方が培われてきます。様々な人が関わり、仲間とその時できることを積み重ねていくと、自分たちの立ち位置(強み)のようなものができ、見える世界があり、貢献できるところが明確になります。引き受けられることが増え、連携したり、役割分担できるようになり、更に繋がれる人が増える。
これまでの道のりは私にとって大事な日々でした。
葛藤した分だけこだわりがあるし、強い想いもある。だからこれが私たちの最善だと思いがちだけれど、それにこだわると進化が止まり、包摂することができなくなるのですよね。そうなると、私たちの居場所は存在義がなくなり孤独になるのだと気づきました。


拓海くんからいくつかの問いを貰いました。

何故「こども」食堂なのか。
誰に届けたいのか。それ以外の人はどうするのか。(どう思うのか)

私たちは最初、こどもが一人でも来れる場所を創りたかったのです。
私は「貧困になることで一番大変なことは、関係性が貧困になること。」だと思っていました。だから、「孤独を解決したい。子どもたちが歩いて行ける範囲に味方がいる社会を作りたい。」と思っていました。
子ども食堂、という名前にしたことで、子どもたちだけでわいわい集まる場所になりました。しばらくすると、高齢の方やいろんな人が来てくれるようになり、「一緒にご飯を食べる」「定期的に誰かがいる」ということで
沢山の人と繋がれる可能性があることを教えてもらいました。
そして、いろんな人が来てくれて、私たちがなしえないような関りをしてくれることで、子どもたちの居場所が豊かになるように感じました。

一方で、子ども食堂は貧困対策のひとつとしてメディアに取り上げられるようになりました。「貧困家庭の子どもは可哀想、そしてそれを救おうとして市民が立ちあがった!」と書かれたのです。このことにより、子ども食堂に来ることは貧困家庭であることを公表することになってしまいました。家庭から子ども食堂に行くことを禁じられ、来れなくなったこどもたちもいました。
「明らかに困っているように見える人が救われること」は沢山の人が願うことなのかもしれません。「本当に困っている人に届けることができているのですか。」「困っていないのに甘えで利用している人がいるんじゃないですか。」と言われることもありました。

困ってる人とは誰なのか。
どこの誰が決めるのか。
基準に満たない人を排除するのか。

皆精一杯生きています。貧困であることは一見わかりません。自己責任の文化の日本で、誰かに自分が困っていることを知られることはとても苦しいことなのです。
「貧困の方!来てくれたら救済します!」と大きく書いてあるところに「助けてください!」ということなんてできないのです。
そして誰かに相談してもいいのだ、相談したら聴いてもらえるのだという信頼がなければ、繋がることができないのです。
場所を用意しているのだから必要ならくればいいのだ、とうのは「繋がるのは自己責任」というメッセージを伝えていることと同じなのです。

全ての人に居場所が必要だと思っています。
私はこども食堂を運営することで、こどもたちや保護者の皆さん、ボランティアの皆さんと定期的に会えることを喜び、距離がゆっくり縮まることが嬉しく、迎えてもらえる安心感を得ていました。悲しい時には沢山受け止めてもらい、救われました。私自身が居場所を得ることになったのです。支援する、されるという関係ではないのです。皆がお互いに支え合っているのです。だから、役割を降りて自分自身でいられる、家や職場以外の場所、サードプレイスは誰にでも必要なのだと感じました。

私の運営する居場所には、誰にでも来てもらいたいのです。
私たちの食堂と沢山の人に繋がるため、沢山の人に助けてもらう必要があるのです。困っていてもいなくても、想いを分かち合って、一緒に考える機会にしたいし、何より会いに来てくれる人がいるからこそ、私も生かされていると思います。

もうひとつ。
確実に適切な関わりをしてくれる人、目的を遂行してくれる人だけに関わってもらうべきだ、という話をきくこともあります。もちろん、こどもたちや居場所の安全を守る必要はあります。でも、そう思えば思うほど、人はその居場所に関わり続けることが難しくなるように感じます。

目的を持って始めた活動で救われ、目的を明確にしすぎることで分断を生み出すことも知りました。自分がこうあるべきだと思うほど、皆が苦しくなることも知りました。

先程も書きましたが、1人の子どもを育てるには一つの村が必要であるように、居場所は多様であることが大事なのだろうと思っています。
多様であるために、私はこだわりを手放すことにチャレンジしています。
関わってくれるひとりひとりが願いを持ち寄って、自分の視点で見て、感じて、必要なことをしてくれること。その総和が居場所になっているといいなと思っています。
これから先は、ひとりひとりが肚落ちし、自己実現しながら関わり、誰かの為の一歩を踏み出すことができることができたらいいなと思っています。
まだ全然言語化できていませんが、拓海君の問いに向き合いつつ、考えていきたいなと思っています。




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