流刑囚の映画千夜一夜物語~第40回+40.1回『劇場版 ソードアート・オンライン プログレッシブ 星なき夜のアリア』+『サマーゴースト』(’21日)
私流刑囚がその時々で見た映画を紹介するコーナー。第40回は『劇場版 ソードアート・オンライン プログレッシブ 星なき夜のアリア』(’21日)
本作の5点満点評価は…
コンセプト…1.5点
カメラワーク…2.5点
ビジュアル…2点
脚本…2点
総合評価…2点
日本でトップクラスに有名なライトノベルシリーズの映画化。アスナという少女が友人に誘われMMORPGの世界に行ったところそのゲームのクリエイターがプレイヤーを閉じ込めてしまう。元の世界に戻るには100面のラスボスを倒すしかない…という内容。
ここまで読んでだいたいどんな内容かイメージができた人は、これからわざわざ映画本編を見なくても良いかもしれない。ほぼこの通りだからだ。
取り立てて駄作だのなんだのと批判するような出来ではないが、逆に取り立てて語らなければならないような部分もない。そこそこのクオリティで、予想通りの展開が逸脱することなく繰り広げられる。要するにこの手の感想文を書くのに一番困るパターンだ。
ちょっと調べたところこの『ソードアート・オンライン』というシリーズは2002年から続いているらしい。もう20年近い歴史がある。今ではこの手の「異世界転生モノ」「なろう系小説」は一大ジャンルと化しており、個別の作品を知らずとも多くの人がその内容を大まかに想像することができる。本作はそうした類似品の元祖でありSF色が強い。要するに「ウエストワールド+マトリックスを現代日本に置き換えて~」という感じだ。
個人的にはこの内容のこの作品を、何故今こうして劇場長編映画として仕切り直さなければならないのかがよくわからない。映像的にもまあよくある今時のアニメーションという感じでやはり批判するようなものではないが特筆すべき点もまた無いのだ。まあ(括弧付き)「ウェルメイド」という感じだろうか。
逆にここまでありきたりな内容だと(完全に老婆心ではあるが)「興行」という観点からもちょっと心許ないのではないかと思ってしまう。もっと視点を変えて群像劇にしてみるとか、ホラー要素を前面に押し出してみるとか、「ゲーム内集団監禁事件」を捜査する警察の視点を取り入れてみるとか、あるいは「20年の歳月をゲーム内で過ごしてしまった人々やそれらの親族関係者」みたいなヒューマンドラマ的な話にしても良かったかもしれない。要するにもうちょっと何か新しい要素を付け加えたほうが良かったのではないか。実写映画化してデヴィッド・クローネンバーグとかアリ・フォルマンとかに監督を任せてみても良かったかもしれない。いずれにせよ何かしらの変化が必要だ。だってもう20年ですよ?当時の新生児が成人するんですよ?
本作に関して気になるのはその内容、世界観とかその後の展開とかではなく、これを見る観客たちの心境だ。「あれ?俺たちずっと同じようなものを見せられてるんじゃ?」「20年前も、20年後も、高齢者になるまでずっとこのパターンを繰り返すのか?」とかそういうことを思わないのだろうか?この映画を「楽しめてしまった」という人は、もう少し人生における歳月の重みというものを考えてみたほうが良いかもしれない。
続きまして私流刑囚がその時々で見た映画を紹介するコーナー。第40.1回は『サマーゴースト』(’21日)
本作の5点満点評価は…
コンセプト…2点
カメラワーク…3.5点
ビジュアル…2点
脚本…2.5点
総合評価…2.5点
「死」に触れた3人の少年少女が心霊スポットへ行き、そこで若い女性の幽霊と遭遇するという話。
本作に関しても『SAO』と同じく、作品の出来自体は批判するほどのものではない。40分という短さもあるが、劇場で見ればそれなりに引き込まれる出来である。それどころかカメラワーク、特に滑走路、下駄箱、スーツケースなど対象物それそのものを写すさずして観客の注意を引きつける技法はアニメーションという制約のない手法であることを差し引いたとしても中々のものであったと思う。ただ下駄箱やスーツケースに関しては「中身」を一切見せないというのはあまりにもデオドラントされすぎというか。後述する問題と通底するものがあるかもしれない。
このように出来自体は決して悪くはないのではあるが、如何せん個人的にはこの手の「10代少年少女のウジウジ話」に興味が持てないのだ。本作では単なる自意識レベルのウジウジとはまた別に「病による余命宣告、そして死」という題材も扱われる。この点において単なる「自意識ウジウジ話」から脱却しようとする姿勢は評価できるものの、やっぱり「人の死で感動させる」という手法はそれこそ『セカチュー』に代表されるような薄っぺらい「感動ブーム」でやり尽くされたことをアニメに置き換えただけに過ぎない。あと全体的に通底する「10代の夏休み」「水の中のようにフワフワする」というイメージも食傷気味にも程がある。
また本作の問題点として挙げられるのは「社会の不在」である。経緯はどうあれ殺人事件に巻き込まれ死体の第一発見者となったにも関わらず警察にも通報もせず被害者の母親にそれとなくそっと知らせるだけというのはどうなんだろうか。『星なき夜のアリア』(よく考えたらこのタイトルも意味不明だな…)もそうだったが「事件」が起きているにも関わらず「警察=社会」の側からのリアクションが全く描かれないのだ。
そしてこの「社会の不在」は先にも述べた「下駄箱、スーツケースの中身問題」とも通底する。要するに社会や権力、残酷なもの、汚いものを画面の中から一切排除してしまっているということだ。現代のジャパニメーションはこうした甘やかな空間で現実逃避するためのモラトリアム機能しか担っていない、ということなのかもしれない。
こちらもやはり『星なき夜のアリア』と同じく「いつまで続けるんですか?」という話なのだろう。
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