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一番食べたいもの

「一番食べたいものを食べなさい」
外食をする時、母は僕に決まってそう言った。僕は「選ぶ」ことが苦手な子供だった。いや、「だった」ではなくて、今でもそうなのかもしれない。

今でもよく覚えている。小学生の時、僕、母、友だち、友だちの母の4人で、デパートの最上階にあるレストランで昼食を食べることになった。

そこは洋食のレストランで、特に敷居が高そうな外観ではなかったけれど、普段、僕が家族に連れていってもらうファミレスや中華料理屋と比べて、値段が2〜3割ぐらい高かった。

「一番食べたいものを食べなさい」
ここでも、母はそう言った。僕は、特に食べたいものはなかったけれど、ほとんどが1000円を越えるメニューばかりで、メニューの片隅に記載された700円だか800円だかのスパゲティーを見つけて、これが食べたいと言った。

どんな味だったかは覚えていないけれど、この当時、スパゲティーと言えばミートソースかナポリタンだったので、そのどちらかだったはずだ。

僕は、自分はこれが食べたいという欲求ではなく、値段という外的要因でスパゲティーを選んだ。僕の家庭は、特に金持ちでもないし、貧しくもなかった。と思う。

3人兄弟だったので家計は大変だったはずだけど、金銭的なことで不自由な思いをした記憶はない。そうさせないように、両親は必死で頑張ってくれていたのだと思う。だから、母はいつも僕にこう言った。

「一番食べたいものを食べなさい」

でも僕はいつも、一番食べたいものが何なのか、自分でもよくわからなかった。一番食べたいもの、一番したいこと、一番行きたいところ、、、こういった類の質問が、とても苦手だった。今でもそうだ。

僕はいま、ベトナムにいる。でも、ここは僕が"一番行きたかった場所"ではない。そもそも、そんな場所はないのだから。ここで生きるために、何かをしている。今日も明日も、何かをする。でもそれは、"一番したかったこと"ではない。

だけれど、それでも、日々は続いていくし、続けなければならない。そして、そんな日々が、たまらなく愛おしいと思う日もあれば、もう壊れてしまえと思う日もある。

それぞれの感情を味わいながら、その繰り返しの先に"一番したいこと"が、見つかれば良いし、見つからなくてもまた良し。そんな風に楽観的に考えている。


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