What's this?
地震が起きると、私はまず止まります。何か、直ちに危険なことになるような大きい変化が周囲にないか、その観察のために全身全霊をかけるのです。なんていうと大げさかもしれません。何かと、私は、反応が遅いのです。反応や対策を後回しにしがちな癖があるのです。
いえ、もちろん、地震の発生を察知して、「ただちに観察体勢に入ること」を評して、「反応が素早い」「対応が迅速」ということもできるでしょう。そう、私は、誰よりも早く、「様子見モードに入ること」を決定し、実践する自信があります。(どんな自信やねん。)
とにかく、まず、様子を見るのです。それがなんだといいますか、正直なんでもないことだと思うのです。そう、なんでもないことくらいしか今の私には言えないなという思いがあります。
巣に籠らざるをえない状況かもしれません。「籠る」と表現すれば、自主的なものです。「閉じ込められている」と表現すれば、強いられている状態でしょう。
最近の私のおこないで目立つのが、おかたづけ行為です。長いこと触られずにいた、空間。そこに込められたモノたちをほじくり返しては、「うわぁー」とか「あへぇー」とか感嘆しています。(むやみにおバカっぽくなってしまいましたが)要は、古いものを見つけ出しては、いちいちその珍しさに興味を抱いているのです。(おかたづけは進まない。)
自宅でしたら、しまい込んだのはまぎれもなく自分、あってもせいぜい家族でしょう。ところ変わって、それが、多くの他人が入れ替わりながら、いちいちリセットをせずに使ってきたストレージスペースだとすると、もうほとんど、どこに何があるかわからない状態になりもします。そこに封じられて放置されていたものが持つ意味が、私にはわからないものも多くあります。その意味を、考えるのが楽しいのです。なぜ、ここに、こんなものがしまってあったんだろうとか。そこに残された物にも、さまざまな情報があります。しまい込んだ当人が感じた「残す意義」と、時代を越えてそれに触れた私が感じるもの、それが含んだ情報から得る価値はまるで別物かもしれません。その、「意図のミスマッチ」みたいなものが面白いのです。
たとえば、あるとき、「なんて悲しくて不条理で深刻なこと」として何かの記録やモノを残した人があったとしても、時間が経ってから、私がその記録なりモノなりを掘り出して見たとき、「滑稽だ」とか「おもしろい!」だとか、もっと取り違えて「おしゃれ!」「斬新!」だとか感じるなんてこともありえるのです。残した人と発掘した私は、これっぽっちもわかりあっていないかもしれないけれど、「残してくれた」おかげで生じるイベントがあるのです。
現在の苦しいことや痛切なことを、5年後10年後、もっといえば20年40年して捉え直す人が必ずいます。そんなときに、私は生きていないかもしれないし、それはあなたも同様、「捉え直す人」は多くの場合、他者ということになるでしょう。もちろん、自分to自分の捉え直しが出来たら、それは幸いなことだと思います。なかったことにはならぬ、何事も。ならば、苦しみでも喜びでもなんでも、堂々と足跡を残して行きましょうよと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
青沼詩郎
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