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仮想山に籠る

大切な人がいたとする。その人を失ったとする。残された人が生きるとする。別の誰かとその人は出合って、一緒にいるようになったり、生活を共にするようになったりするかもしれない。それは、過去に失った大切な人の存在があっての偶然かもしれない。そうじゃなかったら、そうはならなかったかもしれない。だから、失った人の存在が大切なんだというつもりもない。それはそれだし、とだけ思う。

山ごもりのことを考える。ひたすらに尽きない資金があって、山奥の快適な小屋にこもって、ひたすらに自分の好きなことだけをして生きる妄想である。でも、その尽きない資金をつかって、ネットの注文か何かで生活必需品を届けてもらうのだとしたら、それを届けてくれるのは誰か。そもそも、その尽きない資金ってどこからきたのか。お金の機能する社会にいるのだから、それで孤独になれたわけでもない。

他者の力に頼らない生き方ってあるんだろうか。狩猟採集をして孤独に生きられるか。部分的に、農耕を組み合わせたら生活可能か。仮に私がそうしたとして、私の血や肉になるために犠牲になる生き物が出てくる。植物や何かしらの有機物や無機物かもしれない。それも、自分を含めた環境が自分に与えてくれたものだ。それらと私は、「集って」生きている。干渉しようという意思のもとでそうしているかどうかに関わらず、干渉しあっている。それを止めることができない。どうやっても、どうあがいても、環境に作用してしまう。それが、存在するもののさだめといったところか。

私のいまの環境が、私にこんな妄想をさせるんだろう。私が、私を含めたいまの社会にいなかったら、こんな妄想はしないだろう。もし「あちら側」にいたとしたら、人とよりあつまって、仕事や成果を分かち合う生き方を羨望したかもしれない。「どうして俺はひとりなんだろう」と思うかもしれない。環境に、生かしてもらいながら。空間を、押しのけながら。

緊張したり、弛緩したりを繰り返す。その行き来が止まったら、それは存在しないものになる。

お読みいただき、ありがとうございました。

青沼詩郎

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