Xにありがとう
いまだよくわからぬもの。その存在を仮にXとしておこう。
風邪をひきにくくなったなと思います。私は医療の専門家でないので、あまり、無根拠なことを主張するべきでありません。ですので、ただのでたらめな言葉として聞き流していただくべきことかもしれません。(そんなことをわざわざ言うなよ)
やっぱり、人どうしのまじわりが圧倒的に減ったからなのかなと思います。その渦の中に、私もいたんだと思います。社会の一員としての責任感のつよい人間なんかじゃ決してありませんでしたが、少なくともその一端に、その現場に私もいたんだなという実感があります。
おなじみのメッセージアプリが、運営を通して何やら、調査のアンケートを送ってきました。それは、私の「人とのまじわり」みたいなものがこのところどれくらい減ったかを問うものでした。私は、人との接触が、2月頃までと今をくらべると、その量・機会が20%未満くらいにはなったかなぁと思って回答を送信しました。そう、ほんとうに、接触が減ったなぁと思うのです。
雑多な菌やらウイルスにまみれて生活していたのでしょうかね、2月頃くらいまでの私。「一年中風邪をひいている」みたいな状態でした。そんな実感を抱いて、いつも生活していました。「体調いいときなんて、ない」と思っていました。ちょっと疲れたり、がんばって働いたり動いたりすると、そのまま、風邪につけこまれるのです。根拠はないので、これも私のでたらめに過ぎないのかもしれません。
今は、ウイルスや菌との接触の機会が本当に減ったのかもしれません。それか、私が無理をして働いたり動いたりする機会自体が減ったのかもしれません。あるいは、きちんとした休養が、以前よりも確保されているのかもしれません。時間的な余裕も、体力的な余裕も増えたのかもしれません。さらには、そこに来ての連休です。
精神的な余裕のほうは、どうかわかりません。不安になったり、見通せない領域が増えたとも思います。「今年中にこれくらいのことを準備して、やって、試して、それで来年度あたりにはこんな感じになってたい」という見通しは、塞がれました。それまでの見晴らしを守ることに固執していては、手詰まりです。では、この状況で、どう視点を変えていけばいいか。その意味で、希望は常にあります。
やっかいなことになったとします。そのやっかいの解決に尽力してくれた人がいるとします。私はその人に感謝するでしょう。
では、別のパターンです。その「やっかい」になるのを未然に防ぐ努力を、私の見えないところでしていてくれた人がいたとします。そもそもやっかい自体が発生せずに、私は、その防止のための尽力を知らずに、感謝の機会も持たずに、その功績を見過ごしてしまいます。
「ありがとう」を言われる事態を予見して、手を打ってしまうのです。誰に知られることもなく、おのれの手を割いて、人が煩わしがることを進んでおこなって。
なんだかそれに対して、ありがとうを言いたくなりました。何事もなく過ぎて見える、ある世界の様相を支える裏の尽力に。
私がその存在を想像して、先回りして「ありがとう」を言いたくなったのですけれど、私にそもそもその存在の想像さえさせない存在がすごいなと思います。
その存在を仮に、Xとしておこう。
お読みいただき、ありがとうございました。
青沼詩郎