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しゃべらない人、私が踊りを始めたのは。5

「彼は誰どき」

過呼吸になって、一人暮らしをして、もっと強くなりたいと思って、「少しずつ自由になるために」ワークショップに通っていたら、舞踏公演に出ないか?と声をかけられた。

身体表現への憧れがあった。からだ一つで、人前に立って、世界を作っていく人たちを、かっこいいなと思っていた。「強くなりたい」の「強さ」をそこに見ていたのかもしれない。だから、できるものならやってみたいと思ったが、どんなことやるのかとか、雰囲気とか、舞踏とか、あれこれ心配が湧いてくる。それで、練習見学するのに、友だちに頼みこんでついてきてもらった。そんなバカな頼みに付き合ってくれた田中くんには感謝しかない。今考えると恥ずかしいけど。彼は「踊る人」だったので、多少その練習に興味があったと思っておこう。

それが舞踏の初舞台。竹ち代毬也振付の「かわたれどき」という作品だった。「彼(か)は誰(たれ)どき」、その人が誰かたずねないとわからないような、薄暗い明け方を意味すると教えてもらった。「たそがれどき」も「誰(たれ)そ彼(かれ)どき」からきた言葉だと。何気ない夕方の景色が、ふくらんで見えてきた。小さい頃は、その言葉そのものの風景を見ていた気がする。いつしか見なくなったレイヤー。言葉によってそれがゆっくり呼吸を始める気がした。
ぼんやり浮かぶ人影、影は煙のように姿を変える。小さくなったり大きくなったり、あれになったりこれになったり。竹ち代さんの言葉から、イメージはどんどん膨らむ。悲しいのは、からだが全然ついてこないことだった。影をイメージしても、中腰の太ももはブルブルして、首も背中もガチガチ。すーっとゆっくり歩きたいのに、グラグラする。ドスドス音がする。本番は、イメージを壊すような散々な出来だったと思う。だけど、舞台の後、竹ち代さんは「これからも踊りを続ける人やと思うから」、がんばってみたいなことを言ってくれた。「これからも踊りを続ける人」という言葉だけが、私の中にすとーんと入ってしまった。言葉は魔法だ。私は踊りを続けよう、ここでやめる訳にはいかないと思った。

90年代、京都の景色

私は舞踏を学ぶべく、京都の桂勘さん、ローザゆきさん、由良部正美さんの稽古に参加した。桂さんのクラスは昼間にやってたので、会社の社長にアルバイトに変えてほしいと頼んだ。社長は、今思うと物分かりのいい人で、それなら早出とか残業して工夫しなさいと正社員のままにしてくれた。今でいうフレックスタイム制。仕事場の大阪と京都を行き来して、稽古に通った。

桂勘さんは、京都を拠点とする白虎社という舞踏集団にいた人。私が会った92,3年頃は、サルタンバンクというグループを作って、そこでいろんな人が踊っていた。前述したレベッカもそうだし、西洋人が多かったのが新鮮だった。教えてもらった動きを私が必死に練習していたら、「日本人は一生懸命やりすぎますからね」と桂さんにニヤリと笑って言われたのを覚えている。その頃、桂さんは「ポストモダン」と盛んに言っていた。モダンも知らない私には念仏だが、稽古は、今でいうコンタクトインプロやグループ即興を取り入れたワークショップスタイル。「こういうアイデアがあるんですが、どんなことができるでしょうね」と投げかけられる。集まった人が、アイデアを試しながら、いろんなことを言い合う。参加者の中には、現在、コンテンポラリーダンサーとして活躍している人や舞踏家もいた。今まであったものとは違うものを作ろうとしていたというのか。私みたいに技術もなにもなくても、どんどん意見を求められて、面白いとなったことをやっていく。からだが持つ技術よりも、からだ自体や、偶然性や偶発性から生まれるものが、おもしろがられた。「ポストモダン」をからだで教えてもらったようなものかもしれない。


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