『現代戦略論:大国間競争時代の安全保障』高橋杉雄著、並木書房、2023


はじめに

2022年は歴史に残る年となった。2月24日にロシアがウクライナに侵攻し、ロシア・ウクライナ戦争が始まったのである。これは、戦域の広さ、参加兵力の大きさ、国際社会の関わりなど、多くの点で、21世紀や冷戦終結後どころか、第二次世界大戦後最大級の戦争となっている。

特に現代の問題を扱う安全保障の専門家にとって、同時代史は必須の知識であり、「20XX年には何があったか?」と問われれば何かしら答えられるものである。しかし、専門家でなくても広く記憶されている出来事もある。ベルリンの壁の崩壊(1989年)や湾岸戦争(1991年)、9・11テロ事件(2001年)などがそれに当たり、ロシア・ウクライナ戦争も、それらと同じようなかたちで広く記憶されていくだろう。

特に、高度に情報化が進んだ時代に起こったこの戦争は、スマートフォンなどを通じて、個人個人が世界の最新情報を動画で見ることができ、距離が離れていても、多くの人が同時代性を強感じる戦争となっている。それは日本も例外ではない。地球の反対側ではあるが、これだけの大戦争が展開していることで、長い間、軍事問題から距離をとってきた日本社会においても、安全保障や軍事に関わる問題への関心が著しく高まっている。

そもそも日本が位置する東アジアは、世界で最も危険な地域でもある。北朝鮮の核・ミサイル開発・配備、中国の急激かつ大規模な軍拡が行なわれており、朝鮮半島、台湾海峡、東シナ海、南シナ海といった、政治的な対立要因を抱えたフラッシュポイントが存在している。

日本周辺を見ても、

  • 1998年の北朝鮮によるテポドンミサイルの日本上空を飛び越えての打ち上げ、

  • 2006年の北朝鮮の最初の核実験(2022年1月現在、合計で6回実施)、

  • 2008年の尖閣諸島での中国漁船の海上保安庁巡視船衝突に端を発する第一次尖閣危機、

  • 2012年の日本政府による尖閣諸島の国有化にともなう第二次尖閣危機と中国の政府公船による継続的な接続水域や領海への侵入、

  • 2017年の朝鮮半島核危機、

  • 2021年から行なわれるようになった中露の海空部隊による日本列島周辺での合同示威行動、

  • 2022年に中国が台湾を取り巻くようなかたちで行なった軍事演習

など、安全保障上のリスクが高まっていることを指し示す出来事が数多く起こっている。

このように安全保障環境が悪化し続けていることから、日本も安全保障政策を大きく変えることとした。長い間5兆円前後にとどまってきた防衛費を大幅に増額していくことを決定し、併せて「戦略3文書」と呼ばれる、国家安全保障戦略、防衛計画の大綱、中期防衛力整備計画を見直すこととした(本書執筆時では未発表)

安全保障環境の悪化を踏まえれば、防衛に当てるリソースとしての防衛費を増額していくのは避けがたい現実であろう。しかし、お金はあくまでお金でしかなく、「どう使うか」をよく考えなければ、国民の「安全・安心」を効果的に向上させていくことはできない。そのために必要なのが「戦略」であり、現段階では2022年版の「戦略3文書」というかたちでそれが示されるこ
とになる。

本書は、こうした緊迫した時代において、日本が「戦略」を組み立てていくうえで考えておくべきことを示すために執筆したものである。

まず第1章「戦略はなぜ必要か?」で、いくつかの重要な先行研究や経営戦略論にも言及しながら、戦略はどうして必要になるのか、そしてそれはどのような構造を持つのかについて概説する。特に、戦略そのものではなく、戦略立案プロセスそれ自体が重要であることを強調した。ただし、百科事典的に先行研究を網羅するのではなく、筆者の論旨に沿ったかたちで論考を取捨選択してあることは付記しておく。

実際、戦略は安全保障だけでなく、人間の生活のあらゆる局面で必要とされうる。しかしながら、戦略を立てたからといって成功が保証されるわけではない。実際には失敗することも数多い。そこで第2章「戦略はなぜ失敗するか?」では、「戦略が成功するための課題」を五つ(

  1. 戦略の複層性の理解、

  2. 明確な戦略目的の設定、

  3. 優先順位の設定、

  4. 競争相手との相互作用の理解、

  5. 環境変化への適応

)挙げ、それぞれについて分析を行なった。特に、明確な戦略目的の設定との関連では、「反証可能性」を重視する一部の科学哲学の議論を参照しつつ、「失敗が定義できる明確さ」が必要であることを強調した。

第1章と第2章での戦略そのものについての考察を踏まえ、以降の章では、日本の戦略についての議論を進めていく。第3章「『大国間競争』時代の戦略上の課題」では、大戦略レベルでの考察を行なうために、特に中国の台頭がもたらした戦略的課題を中心に現在の国際関係を分析する。そのうえで、現在の世界では社会システムをめぐる競争と地政戦略のレベルでの競争が展開しており、日本は当事者としてその二つの競争に関わっていかなければならないことを指摘した。

第4章では、第3章で考察した日本の「立ち位置」を踏まえ、日本の大戦略と防衛戦略の大まかな方向性を議論した。ここで重要になるのは、日本の大戦略上の目的が現状維持であることである。なお、こうした方向性を導き出す際には、「ネットアセスメント」という、戦略の対象となる相手との関係での比較優位・比較劣位を重視する分析手法を用いた。

第5章からは、防衛戦略についての考察を深めていく。防衛戦略を考えるうえで、「将来の戦闘がどのようなかたちになるか?」というのは非常に重要な問いである。しかし同時に、答えを出すのが難しい問題でもある。そこで第5章「将来の戦争をイメージする」では、技術的動向や国際政治のトレンドが複雑に絡み合い、予測が難しい将来戦のあり方について、シナリオプランニングの手法を用いて分析した。そこで、将来戦の動向に大きく影響するドライビングフォースとして、将来戦が〔ハイエンド戦闘(正規戦)が中心となるか・ハイブリッド戦/グレーゾーンの事態が中心となるか〕という軸と、〔「戦場の霧」が取り払われるか・『戦場の霧』が維持されるか〕という軸を設定し、将来戦の四つのシナリオを描きだした。

第6章「これからの日本の防衛戦略」では、これまでの議論、特にネットアセスメント的手法用いた分析とシナリオプランニングで描きだした将来像を組み合わせ、現状維持を大戦略上のを目的として設定したうえでの日本の防衛戦略を検討した。その際には第2章で考察した、「戦略が成功するための課題」にも照らしたうえで、日本の防衛戦略の原則的な方向性を導き出した

最後に、第7章では、これまで積み上げてきた分析の結論として、「統合海洋縦深防衛戦略」を導き出した。現在、戦域レベルでの軍事バランスを日米同盟と中国とで比較すると、中国側が優位に立っている。しかしながら、日米と中国の比較優位・比較劣位を踏まえたうえで、日本は大戦略上の目的が現状維持であることと、海洋による離隔という地理的条件を十分に活かすことができるならば、十分に戦略上の目的の達成を追求できる。そのための防衛戦略として示すものが、「統合海洋縦深防衛戦略」である。


米国には「リボルビングドア」(回転ドア)というシステムがある。政府とシンクタンクやコンサルタントを、回転ドアを行き来するように数年おきに行ったり来たりする米国独特のキャリアパス(人事方式)である。それによって、シンクタンクで研究や政策論議に集中し、情報のインプットや政策アイデアを構築したうえで、政府内で行政実務に携わることが繰り返される。筆者は防衛研究所に25年間勤務しているが、そのうち二回、合計で10年近く防衛省内局の防衛政策課員を兼務して行政サイドで仕事をしていた。つまり日本版の「リボルビングドア」である。その間に防衛大綱の策定などに関わることができた。特に、その頃は経営戦略についての書籍も渉猟し、参考にした。本書で戦略そのものを議論している第1章と第2章は、そのときの経験を踏まえてのものである。

本書は、2020年に『新たなミサイル軍拡競争と日本の防衛』を共編著として出版したあとに、並木書房編集部よりご提案を頂いて執筆を始めたものである。2022年2月のロシア・ウクライナ戦争の開戦後にほとんど執筆時間がとれなくなったこともあり、同編集部にはご迷惑をおかけしたが、辛抱強くお待ち頂いたことには深く感謝を申し上げる。

なお、最近の戦略論争に詳しい読者であれば、本書で論じた「統合海洋縦深防衛戦略」が、米国のエルブリッジ・コルビーが著した『Strategy of Denial』で論じた軍事戦略に近いことに気づくであろう*。コルビー氏とは15年来の友人であり、その間に二人で議論をしてきたことを、お互い別々にかたちにしたということでもある。違いは、彼が「米国の取りうる戦略」を一つ一つ評価していくかたちで結論を導き出していったのに対し、筆者はネットアセスメント的分析を用いて結論に至ったことである。異なる経路をたどって似た結論に達するということは、われわれの考えが戦略的にみて有効であることを含意していると考えたい。

(1)Elbridge A. Colby, The Strategy of Denial: American Defense in an Age of Great Power Conflict, (Yale University Press, 2021).

また、ネットアセスメントの創始者であり、伝説的な戦略家でもある亡きアンドリュー・マーシャル氏とも生前に幾度も意見交換の機会を持つことができたことが、ネットアセスメント的分析についての理解を深めるうえで不可欠であった。なお、本書で強調している「セオリー・オブ・ビクトリー」に関連する部分は、核戦略の専門家であるブラッド・ロバーツ氏との議論なし
にはかたちにすることはできなかった。

感謝を伝えるべき人は数多くいるが、特に防衛政策課兼務時代にシナリオプランニング手法を教えてくださった真部朗氏、巡り合わせで三度部下としてお仕えすることになり、不慣れな行政実務に就いた筆者を導いてくださった鈴木敦夫氏、「統合海洋縦深防衛戦略」を考えていくなかで議論にお付き合い頂いた大和太郎氏には特にお礼を申し上げたい。ほかにも多くの方々にお世話になったし、ご迷惑をかけてきたが、みなさまのお名前をあげることができないことにお詫びを申し上げたい。

本書は、「戦略3文書」の策定過程と時期を同じくしての執筆となった。今回の策定過程には筆者は全く関わっておらず、類似の点があってもそれは偶然である。相違点があるとすれば、また筆者としても思索を進めていきたい。今回の「戦略3文書」は、防衛費を大幅に増額するなかでの史上初めての戦略見直しであり、策定チームには心からの敬意を申し述べたい。なお本書で述べたことはすべて、防衛省ならびに防衛研究所の所見ではなく、あくまでも個人的な見解である。

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