『社会福祉学』平岡公一/杉野昭博/所道彦/鎮目真人著、有斐閣、2011

社会福祉学とは何か

第1部 ソーシャルワークの展開

第2部 福祉国家の形成と展開

5章 福祉国家の形成

社会福祉制度はきわめて複雑で巨大な国家システムの一部を形成している。「福祉国家」という語を聞いたことのある人も多いであろう。しかし、このシステムは、突然整備されたわけではなく、社会的・経済的背景から構築されてきたものである。この章では、イギリスの例を中心に、国による個人の生活ニードを充足するための役割が拡大し、「福祉国家」が形成されていく過程を概観する。



KEYWORD

ベヴァリック報告、ワークハウス、ナショナル・ミニマム、ベヴァリッジ報告、福祉国家



5-1. 社会問題の発生と救貧法の展開

貧困者対策の登場

近世以前の農業社会において、個々人の生活に必要な資源は,本人の自助努力と家族による扶養を通じて確保され,地域社会における相互扶助や宗教組織による援助活動などがこれらを補完していた。

やがて、「産業化」がはじまると、こういった生活保障のシステムが崩壊するようになる。たとえば、イギリスにおいては,16世紀からいわゆる「囲い込み」と呼ばれる産業化による農業社会の変化がもたらされるようになる。羊毛という工業製品を生産するために,農地は牧羊地へと転換され、土地を奪われた農民は生産手段を失い,浮浪化するようになった。また,農民の浮浪化は、農耕を通じた地域社会のつながりの崩壊をもたらすようになる。これら生産手段を失った人々の多くは、都市へと流入し、「物乞い」などを行うようになる。こういった都市部における貧困層の増加は、支配階層に不安をもたらす。大量の生活困窮者が滞留することによる暴動など直接的な社会秩序への脅威と.「物乞い」などが横行することによる道徳的な秩序の崩壊への懸念が高まることとなった。こういった不安のなかで、都市の支配者たちは、労働可能な物乞い者には鞭打ちなどの罰を与えたり出身地へと強制的に送還したり、労働不能な者には施しの分与、児童には徒弟奉公を強制といった処遇を行うようになった。

こういった各地の取り組みを集大成したものが、エリザベス救貧法(1601年である。この法では、地域の教会の教区を救貧行政の基本単位とし、貧民監督官を配置し、「児童」「労働可能な貧民」「労働不能な貧民」といった生活困窮者について対象者別の処遇を行うこととした。そして、救済の場として、また労働力有効活用の場として、ワークハウス(労役場・教院)を用意し、こういった「救済」のために救貧税を課税し、財源を確保することとなった。この救貧法は、世界で最初の公的な貧困者救済のための法律であるとされるが、その背景には,「治安対策」的な意味合いがあったことに注意する必要がある。

やがて、時代の経過とともに、救貧法における当初の厳格性が緩和されていくようになった。たとえば、労働意欲のある労働可能貧民に、就業の斡旋を行い,これが不可能な場合にはワークハウスの外での救済を認めるギルバート法(1782年)が制定された。さらに、18世紀末には、スピーナムランド制と呼ばれる処遇が展開されるようになった。これは、一般の低賃金の労働者に対してパンの価格と家族数に応じて救貧税から補助するシステムである。低賃金労働者までを援助の対象として補足給付を行う点は、現代の公的扶助に通じる意味で画期的であるが、これによって救貧法の対象者は大幅に拡大したことに加え、最低賃金制度などが存在しない時代に実施されたため、救貧税による補足を期待して意図的に賃金水準を引き下げる雇い主が現れるなど、その弊害は大きかった。もともとエリザベス救貧法は、大まかな救済方針を示したものであり、その処遇の実情は地域ごとに異なっていたとされる。


産業革命と救貧法改正

19世紀になると、イギリスは産業革命の時代を迎える。熟練工を中心とした生産システムから、機械による大量生産システムへの移行が始まり、経済が急速に発展する方で、大量の生活困窮者が生み出されることとなった。すでに、長年の制度の修正によって矛盾を内包してきたエリザベス救貧法は、このような新しい社会変動に直面することで破綻し、1834年に救貧法の大幅改革が行われた(新救貧法の成立)

救貧法改革は、

  • 救済の水準を全国的に統一し地方レベルの裁量を廃止したこと、

  • 救済を受けている者の生活水準については救済を受けないで生活している労働者以下の状態にすること(劣等処遇原則)、

  • ワークハウス制度を徹底し公的な救済は院内救済に限定したこと

などを主要な柱としていた。これにより、あえて劣悪なワークハウスを用意し、その入所を選択してでも救済を望む者が真の困窮者であるとする厳格な処遇が展開されることとなった。

その背景には、いわゆるビクトリア時代の価値観である「自助」の強調と生活困窮の原因は本人の努力不足にあるとする貧困観がある。「自助努力を怠る「者は救済に値しない」「他者からの援助を受けて生活している者の生活水準は、そうでない者のそれを超えてはならない」という考え方は、現代に生きる私たちの個人の価値観ととう結びついているのか考えてみる必要があるだろう。



5-2. 「民間慈善活動と互助システムの発展・思想

民間の取り組み

19世紀には、生活困窮者に対する公的な対応管理が進行する一方で、民間の篤志家・慈善家による救済活動が展開されていた。たとえば、チャルマーズによる隣友理動や、ブースの救世軍などがあげられる。スコットランドの牧師。トマス・チャルマーズ(T. Chalmars)は、貧困地区の地域を分割し、そこに地区担当者を置き、担当者による訪問と指導を通じての貧困者の自立援助を促そうとした。こういった活動は、宗教上の責務の側面をもつ。民間の優位性、個人の意思に基づく慈善活動こそが、真の慈善活動であるとし、公的な強制的な慈善活動とは一線を画すべきであるという考えが主流であった。救世軍とは、ウイリアム・ブース(W.Booth)によって創設された慈善活動を行うキリスト教団体である。軍隊をモデルにした組織形態などの特徴があり、現在約120か国で賛困問題に取り組んでいる。日本でも山室軍平(1872-1940)らの活躍がよく知られている。さらに、19世紀には、慈善組織協会(COS)(2章)が登場し、各地域での個々の慈善組織の関係調整を行い、組織的に民間による救済活動を展開するようになった。

これらの民間慈善組織の多くは、当初はキリスト教的な背景をもち、小地域ごとに貧困者の自立と相互扶助を推進するものであった。たとえば、生活困窮者の家庭を訪問し、生活状況について聞き取り、問題の改善のための助言を行うといった一連の活動を通じて蓄積された知識や技術は、現代のソーシャルワーク、社会福祉援助技術の源流となっている。一方、生活問題については道徳的側面を重視し、問題の解決のためには生活困窮者自身の教育が必要であるという姿勢が強かった。その意味では、救貧法システムと、貧困の個人責任論を共有しており。活動の成果にも限界があった。

19世紀後半になると、大学関係者を中心に、都市部の貧困地域に入り込んで、教育や援助活動を行うセツルメント運動とよばれる慈善活動が見られるようになっていった。ロンドンのイーストエンド地区に設立されたトインビーホールは有名である。セツルメント運動は、社会の貧困状態に対して、特権階級や学識経験者の社会的責務とは何かを問うという点で、宗教的な動機に基づくそれまでの活動とは異なる要素が含まれるようになっていた。地域に焦点を当てた救済活動の展開は、他の国でも見られ、ドイツでは、1850年代にエルパパーフェルト市において、地区を細かく設定し、これを担当する救貧委員を配置し、貧困世帯を訪問させるしくみを整備している(エルパーフェルト制度)

これら公的施策と民間の慈善活動とは別に、新たな「共助」システムが発展してきたことにも注目する必要がある。労働者による友愛組合(フレンドリ・ソサエティ)は、相互扶助的な活動を行っていた。友愛組合は、19世紀になって多数設立され、親睦会的な事業だけでなく、組合員から掛け金を集め、病気などの場合に給付を行っていた。これらは、やがて国による社会保険システムへとつながっていくものであるが、もともと組合員による「自治」的側面があることまた比較的安定した生活をおくっていた男性労働者中心のしくみであったことに留意する必要がある。

19世紀における救貧法システムと民間慈善活動の発展は、現代の社会福祉にいくつかの大きな意味をもつ。第1に生活保障の担い手は「公」か「民」かという議論の源流がここにある。地域に根ざした民間組織・民間人のほうが、そこで生活する困窮者を救済するうえで優れているという考え方はこの当時から存在し、現在に至っている。

第2に、生活困窮者に対して、全国一律のルールで処遇・管理する大きな「システム」が成立した一方で、1人ひとりの生活問題に地域で「個別援助」する必要性も認識されるようになった。この2つのアプローチは、現代の社会福祉における「ソーシャルポリシー」と「ソーシャルワーク」という2つの学間体系による二重構造へとつながっている。

第3に、貧困問題の解決への多元的なアプローチの存在である。貧困の原因の多くが社会構造的な面にあるとしても、それを解決するためには、社会構造を変革するだけで十分なのか、問題を抱えた個人を社会構造に適応させるためにはどうすればいいのかなど、雇用、教育、生活面での自立と経済的な自立の関係など、現代に至る社会福祉の課題がすでに表出されていることに注目したい。


19世紀の社会思想の発展と社会福祉

さて、前節において、「自助」をめぐるピクトリア時代の価値観について触れたが、ここでは、その当時の社会思想を概観しておきたい。社会福祉は、政治家・篤志家個人の活動によってのみ動かされてきたのではなくその時代における思想的潮流の影響下にある。

19世紀前半の経済学の分野で、強い影響力を有していたのが、アダム・スミス(A.Smith)である。古典派経済学の創始者とされるアダム・スミスは、個人の自由な経済活動を擁護し、その調整メカニズムとしての市場原理を重視した(いわゆる「神の見えざる手」)。規制を排除することによって国家の経済が発展し、国が豊かになっていくとする古典派の考え方は、この当時の封建主義的社会から市民社会、農業社会から産業社会への転換のなかで、市民=資本「家の権利と、旧支配システムによる「規制」への対抗と個人の経済活動の擁護そのための論理として用いられた。アダム・スミスに始まる「市場」を重視した経済理論は、その後、継承・批判・修正を繰り返しつつも、現在も経済学のなかで主要な位置を占めている。

一方、当時、自然科学の分野では、ダーウィンの「種の起源」(1859年)にはじまる「進化論」が影響力を拡大していた。この考え方は、科学万能主義の世界観のなかで、社会の事象にも適用されるようになる。スペンサーは、ダーウィンの生物レベルの生存競争による淘汰や適者生存の考え方を、人間社会のなかに適用し、生存競争を社会が進歩していくために必要なものとする「社会進化論」を提唱した。この論理は、社会や国家間における競争や淘汰を進化のために必要なものとし、対内的には、個人レベルの競争やその結果としての社会内における格差や貧困問題の存在を容認するだけではなく、対外的には帝国主義の時代において植民地の拡大や他民族に対する支配・搾取を正当化するものであった。このほか、「天は自ら助くる者を助く」という言葉で知られるサミュエル・スマイルズの「自助論」も、産業革命期における社会状況とあわせって理解する必要がある。スマイルズは、相互扶助の重要性を認識しつつも、努力、忍耐力、節制、自己改善の重要性を強調した。こういった経済社会思想の主流化によって、当時の社会福祉制度(救貧制度)は大きな影響を受けることとなった。18世紀までの博愛人道主義の影響のなかで行われてきたエリザベス救貧法の厳格性の緩和傾向(ギルバート法やスピーナムランド制)が、救貧法の改正によって再び厳格化されたことも、これらの思想の主流化の流れと関連させて理解することができる。

一方、社会問題の構造的な背景に関心をもつ者も活躍していたことにも留
する必要があろう。たとえば、後に「空想的社会主義者」と評されたロバー
トオーウェンは、児童労働の制限や児童の保護を訴え、工場法の制定に貢献
しただけでなく、協同組合運動にも大きな影響を与えた。また、マルクスは、資本主義のメカニズムを明らかにするとともに、その行き詰まりと社会主義体制の到来を予言した。労働者の団結の高まり、資本家の警戒感・危機感は、国家体制のあり方を検討させることとなった。

また、当時の社会思想を理解するうえでは、多様な考え方.「個人主義的なもの」や「連帯主義的なもの」が混在していたことに注意する必要がある。現在でもこれらについての評価は分かれており、たとえば、先の友愛組合の活動についても、国家による福祉に頼らず、自らの意思、個人の努力や相互扶助による問題解決のアプローチと理解することもできれば、集団でニードを充足するしくみを開発したことによって後の福祉国家につながっていったという理解も可能である。また、労働者の組織についても、その相互扶助的側面に注目するか、あるいは、運動体的機能に注目するかで、現代社会に対する影響のとらえ方も変わってくることになる。現在の社会福祉制度を左右する議論や「個人」と「社会」、「自助努力」と「社会的扶助」。「競争」と「連帯」といったキーワードの起源を探っていくと、これらが約200年以上の歴史があることを確認することができるだろう。



5-3. 国家の役割転換

社会問題の認識と貧困調査

20世紀に入ると、社会科学の発達により、資本主義社会と社会問題の発生プロセスの理解が進むようになった。これまで、救貧法や民間慈善活動の前提となっていた「貧困観」が徐々に転換していくようになる。

イギリスでは、貧困についての社会認識を転換するにあたって大きな役割を果たしたものとして、「貧困調査」がある。そもそも、貧困の原因は何か、どの程度貧困は社会に存在するのか、といったことについての関心から行われたものであり、チャールズ・プースとシーボーム・ラウントリーによる調査が有名である。

ブースは、もともと海運業者であるが、ビジネスの傍ら貧困問題に興味をもち、3回にわたるロンドン調査(1886-1902年)を行い、「ロンドン民衆の生活と労働」としてまとめている。ブースは、これらのロンドン調査のなかで、「貧困線(Poverty Line)」という概念を用いた。すなわち、貧困者とそうでない者とを区分する基準の設定を試みたわけである。ブースは、多数派労働者の生活水準をその基準(貧困線)として調査を行い、貧困線以下の所得で生活す貧困者が人口の3割以上を占めていることを明らかにした。

ラウントリーも、チョコレート会社を経営する実業家一族の一員である。ラウントリーは、イギリス中部の地方都市ヨークにおいて、貧困調査を行い、「貧困都市生活の研究」(1901年)としてその成果をまとめている。ラウントリーの貧困調査の特徴として、後に理論生計費法と呼ばれる科学的な手法を用いて、最低生活に必要な費用を貧困線として設定し、貧困を測定したことがあげられる。そのプロセスは、①肉体的能率を維持するために必要なカロリーを計算し、②それを摂取するのに必要な食料を設定し、③それを購入するのに要する費用を求めて食費とし④住宅費や日用品費などを加算し、⑤最低生活費を計算するというものである。この手法は、買い物かごに必要なアイテムを入れていく形式であることから、マーケット・バスケット方式と呼ばれるものであるが、現代でも通用する貧困測定法である。ラウントリーは、ヨーク市における貧困層を、その収入が単なる肉体的能率を維持するにも不足する層(第一次貧困[Primary Poverty〕)と、所得が(ほかに用いられない限り)肉体的能率を維持するに足りる層(第二次貧困〔Secondary Poverty))とに区分し、第一次貧困が人口の9.91%第二次貧困が17.93%合計3割弱の人口が貧困であることを示した。また、ラウントリーは、貧困の原因は、低賃金、疾病、多子などと多様であり、どのように勤勉に収入を得ようとしても、その賃金では、生活できない層が存在することを示すこととなった。この結果は、同じ時期にロンドンで調査を行ったブースのものと近く、当時、世界的な繁栄を謳歌した。大英帝国の本国において、貧困という社会的な問題が深刻化していることが明らかとなった。


ナショナルミニマム論と国家介入

このように、社会科学の発展から貧困の原因は、低賃金、疾病、多子などであり、それまで「努力が足りない」「浪費や飲酒によって貧困に陥っている」とする貧困の自己責任論の見直しがはじまり、貧困を社会構造的な問題としてとらえる動きが出てくるようになった。もし、貧困が個人責任だけでないのであれば、社会的に対応すべきではないかということになる。ここにおいて、自由放任の方針で、経済活動に介入しない立場にあった国に対して、貧困対策の必要性が訴えられるようになった。

さらに時代背景として人権思想の高まりがあったことに留意する必要がある。イギリスの名誉革命やフランス革命以来、自由権を軸に各国に浸透していった人権思想は、国に対して介入を求める権利である社会権という新しいカテゴリを形成しつつあった。これに関しては、イギリスのウェップ夫妻による「ナショナル・ミニマム」という概念の提唱が有名である。ナショナル・ミニマムとは、すなわち、国民が保障されるべき最低限度の生活水準を意味し、ウェッブは、雇用、最低賃金、教育、健康(保健・衛生)余暇・レクリエーションを含む生活水準を国や自治体が最低限保障することが重要とした(『産業民主制論」)

同時に、イギリスでは、世界帝国を維持するために必要な労働力や人的資源の質を維持する必要性から国による政策を進めるようになる。とくに、兵役検査において、多数の若者が家庭の貧困のために兵士として十分な体力をもたないことが判明したことは、大きな政治問題となった。すでにイギリスでは、こういった動きよりも前から、資本主義の発展にともない資本家による「労働者の食いつぶし」への懸念が広まっていた。できるだけ安い賃金で長時間労働させたい資本家に対する規制が行われるようになり、工場法などが制定・改革(1819年、1833年、1847年)され、労働時間の制限児童労働の禁止、労働者の保護など、資本家の経済活動への介入が始まった。20世紀になってさらに、広く国による介入が求められるようになったのである。

このような国家戦略の視点から「社会保障」制度が整備される例は早くから見られる。たとえば、ドイツでは、1880年代にビスマルクによって疾病保険災害保険などの社会保険制度が導入されている。これは、社会主義勢力の抑圧という目的から展開された「アメとムチ」と呼ばれる一連の政策の「アメ」の一部分としてとらえられている。すなわち「資本家から労働者を守るため」の制度として、疾病保険(1883年)、労働災害保険(1884年)、障害老齢保険(1889年)が導入されるとともに、労働者が過激な革命へと走らないように社会主義者鎮圧法(1878年)を制定することで、社会主義思想の取り締まりを図った。ここには、「治安対策」の一環としての社会保障制度の展開を読み取ることができる。



5-4. 初期福祉国家の成立

イギリス救貧法改革委員会の議論

20世紀になると、19世紀中ごろに再編された救貧法システム自体は破綻の危機に直面していた。世界的な恐慌によって賃金の下落と大量の失業者が発生した。労働能力のある貧民を収容して強制就労させる場としてのワークハウスは、老齢者、疾病者、障害者を収容する施設になっており、ワークハウスの外にいる労働能力をもった貧困者への対策が必要となっていた。

1905年には、「救貧法および困窮者救済に関する王命委員会」が設置され、改革の方向性が議論されたが、最終報告(1909年)は多数派と少数派に分裂する結果となった。このうち、ウェップらの少数派は、先述したナショナル・ミニマム論を展開し、国家が最低賃金や社会保障制度も整備し、最低限度の生活を保障すべきと主張した。具体的には、労働能力をもつ者については、「労働省」を新設し、公的に労働市場を組織化し、「職業紹介」を通じて雇用と失業者を結びつけること、労働能力をもたない者については、地方自治体の責任の下で高齢者、障害者、児童への諸サービスを実施すること、そして、救貧法を廃止することがその内容であった。一方、COSなど民間の慈善団体関係者によって構成された多数派の主張は、救貧法の廃止ではなく、改革であった。これまでの厳しく抑圧的な処遇には反対したが、公的機関が積極的に貧困者の救済に乗り出すことには消極的であり、民間組織が中心になって救済活動をすべきであると主張した。これらの議論の枠組みは、現代の社会福祉における「福祉の担い手は誰であるべきか」、「公」対「民」の議論に通じるものである。


各国における初期福祉国家システムの形成

さて、社会福祉の歴史の大きな流れとして、もともと「貧困救済」のしくみとして出発した社会福祉制度が、対象者別や領域別に「分化」していくという点にも注目する必要がある。たとえば、児童保護などの施策を通じて児童福祉が発展し、公衆衛生など医療や住宅に関する施策が独自に展開され、失業対策の公共事業が行われることで、貧困者対策から労働政策が分離していくというかたちである。20世紀になると、生活困窮者への対策として、新たなシステムの導入が試みられるようになる。

イギリスでは、救貧法の改革委員会の議論と同じ時期に、救貧法以外の分野で新たな制度の展開が行われていた。1908年には無拠出制・ミーンズテストによる老齢年金制度が導入され、救貧法制度の枠の外で低所得高齢者への社会保障制度が開始された。また、1911年には国民保険制度が導入された。これにより、拠出制保険原理に基づいて、被用者の失業や疾病をカバーするしくみが開始されたことになる。

ドイツでは、ビスマルクの社会保険制度を発展させるかたちで社会保障制度が整備されていった。1911年には帝国保険法が制定され、社会保険制度は、ホワイトカラー層にも拡大されることとなった。ドイツの社会保険制度の展開は、後のイギリスのベヴァリッジにも影響を与えている。また、第一次世界大戦後には、ワイマール憲法が制定され、そのなかに社会権が規定されナルミニマムの保障が国家の基本法に明確に示されることとなった。

スウェーデンも19世紀にはヨーロッパのなかでは工業化が遅れており、アメリカに大量移民を送らざるをえなかった。20世紀になって工業化が進むなかで社会保険制度が整備され、1913年には、国民年金法を制定した。これは対象を労働者に限定せず。全国民をカバーできるものであった。

しかしながら、このような初期の制度の基盤はきわめて脆弱であり、やがて1930年代の大恐慌の時代において早くも破綻することとなる。各国では、大恐慌によって発生した大量の失業者への対応が必要となった。ドイツの社会保制度は、大恐慌による大失業や社会不安に十分に耐えうるものではなく、結果的にナチスの台頭を招き、第二次世界大戦へとつながっていくこととなった。アメリカでは、イギリスの影響を受けており、州ごとに行われてきた慈善活動が市民の生活保障の中心システムであったが、大恐慌によって生み出される大規模失業に対応することができなかった。そこで登場したのが、ニューディール政策と呼ばれる、連邦政府が拠出した公共事業による失業対策である。1933年には公共事業局を設置し、各地で公共事業による失業者の吸収を図った。ま1935年には、「社会保障」という名称を使った最初の法律である社会保障法(SocialSecurityAct)を制定し、連邦政府直営の老齢年金の導入、州による失業保険や公的扶助への連邦政府の拠出、児童を扶養する貧困家庭への補助であるADC(AidtoDependentChildren)などの公的扶助制度の創設が行われた。アメリカにおけるこの時期の改革は、より大きな役割を連邦政府が担うかたちで進められた点が特徴的である。各国とも大量失業と生活困窮に対応することを余儀なくされたわけであるが、最終的な解決は、第二次世界大戦によって失業者が吸収されるのを待たなければならなかった。



5-5. 現代福祉国家の成立

戦後福祉国家の登場

第二次世界大戦に限らず「戦争」は「社会福祉」制度の発展に大きな影響を与えている。そそれは、退役軍人への恩給、傷痍軍人への障害者施策、戦争遺族への生活保障将来の兵士である児童やその母への健康増進施策から、国家総動員体制の下での国家管理計画に基づく食料配給、雇用、住宅、医療政策など多岐にわたってている。これは、軍事物資の効率的な調達や生産性の向上、国民の戦意高揚という立場から行われるものである。

イギリスでは、ベヴァリッジ報告(社会保険および関連サービス: Social Insurance and Allied Services)(1942年)が発表され、戦勝後の国家ビジョンの中核に「福祉国家」を位置づけ、国民の戦意高揚を図った。ベヴァリッジは、窮乏(want)、疾病(disease)、無知ignorance)、陋隘(不潔)(squalor)、怠惰(idleness)を5つの悪とし、国家による社会保険制度(均一拠出・均一給付)を整備することで、貧困問題の多くを年金や失業保険で対応するものとし、それが不可能な場合に備えて公的扶助(国民扶助)制度を用意するプランを構想した。さらに、国家による制度だけでなく、個人による自助努力、自発的な生活保障への取り組みの必要性も指摘しており、最低生活水準以上の付加的なニードに対応するため、任意保険の役割も規定している。また、その前提として、完全雇用政策、包括的な保健医療制度、家族手当をあげている。これらの提言は、戦後、国民保険法(1946年)、国民保健サービス法(1946年)、国民扶助法(1948年)などによって実施され、「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる現代福祉国家の体系が整備されることとなった。

ドイツは、戦後、東西に分断されたが、西ドイツでは、ビスマルク以来のシステムを引き継ぎ、社会保険を柱とする福祉国家モデル(社会国家)を発展させることとなった。職域別の社会保険は、その職域における相互扶助と自治の原則に基づいて運営されており、サービスの供給に関しては多くの民間非営利組織が存在する。

アメリカでは、連邦政府(中央)と州政府(地方)との役割分担を前提に、州に対する連邦からの補助金を通じて制度を拡大してきた。アメリカにおいて全国民を対象とする包括的な公的医療制度は存在せず、低所得者を対象とするメディケイドと高齢者と一部障害者を対象とするメディケアの制度が導入され市民権運動や貧困問題への関心が高まった1960年代には.ADC制度に代わってAFDC(Aids to Families with Dependent Children)が導入された。これは、16歳未満の子どもをもつ低所得世帯への給付であり、ADCよりも受給資格要件を緩和したものであった。また、フードスタンプと呼ばれる低所得者に対する食料品購入用クーポンの支給制度が導入された。

さらに、この時期には、貧困地域へ重点化した教育支援プログラムヘッドスタート)や地域での生活支援自立支援のプログラム(コミュニティアクショプログラム)などが展開されるようになった。アメリカでは、公的な社会福祉制度が限定的で、市場経済における自助を重視し、民間福祉活動ソーシャルワーク中心にしている点も特徴的であるが、これらも建国以来の伝統と関係があるものと理解できる。

スウェーデンは、大恐慌の時期以降、国家、資本家・企業、労働組合との合意を軸に福祉国家を整備してきた。労働組合は過度な労働要求をせず経営に協力するかわりに、国は、積極的な労働市場政策によって雇用を確保し、社会サービスを提供し、可能な限り平等な社会をつくるという点についての20世紀初頭の国民の合意が現在の福祉国家の中核にある。第二次世界大戦後も各領城でのプログラムは拡大し、高い水準の税金によって高い水準の社会支出をまかなっている。

日本においても戦後、公的責任と生存権に基づく社会福祉制度の体系が整備されている。社会保障制度審議会勧告(1950年)では、「社会保障制度とは.疾病、負傷、分娩、廃疾、死亡、老齢、失業、多子その他困窮の原因に対し、保険的方法又は直接公の負担において経済保障の途を講じ、生活困窮に陥った者に対しては、国家扶助によって最低限度の生活を保障するとともに、公衆衛生及び社会福祉の向上を図り、もってすべての国民が文化的社会の成員たるに値する生活を営むことができるようにすること」とし、各部門の整備を進めてきた。1950年代までに、児童福祉法や生活保護法が整備され、その後社会保険の範囲を拡大し、1961年には「国民皆保険・皆年金」の体制が成立し、戦後福祉国家の形態が整うこととなった。

戦後福祉国家には、広範囲な社会政策の体系が構築されており、雇用、所得保障、保健医療、教育、住宅、福祉サービスなどを通じ国民生活への公的社会的介入を行いナショナル・ミニマムの保障が行われている。その基本的なしくみとしては、

  • 社会保険

    • (年金保険、医療保険、雇用保険、労災保険、介護保険)、

  • 公的扶助(生活保護)、

  • 社会手当(児童手当児童扶養手当)、

  • 福祉サービス

    • (介護施設、保育所、在宅福祉サービスなど)、

  • 公営住宅、

  • 保健医療サービス

    • (母子保健.、公衆衛生)

などがあるが、国によってその制度の選択肢は大きく異なっている。


20世紀の経済社会思想と福祉国家

福祉国家成立に大きな影響を与えたのはマルクス主義である。マルクス主義は、ヨーロッパ各地に広がっていったが、その定着と発展過程は国ごとに大きく異なることとなった。たとえば、ロシアにおいては、レーニン指導の革命により、世界最初の社会主義国家が誕生した。イギリスでは、ウェップ夫妻などによって、フェビアン協会が設立され、斬新的な方法によって社会主義を実現しようとする動きが労働党へ、ドイツにおいては、ベルンシュタインによって修正マルクス主義が社会民主党の活動へとつながっていった。西ヨーロッパにおいては、マルクス主義勢力が革命によって政権を奪取することはほとんどなく.社会民主主義政党が大きな政治勢力となり、福祉国家の拡大路線を進めた。

20世紀になると経済学においては、それまでの古典派新古典派経済学とは異なる視点が登場するようになる。世界恐慌の最中の1936年、ケインズは「雇用・利子および貨幣の一般理論」を発表した。ケインズは、それまでの「自由放任」によって雇用が維持されるとする考え方を否定し、有効需要の原理に基づいて、公が需要を創出することによって非自発的失業問題を解決することを論じた。いわゆるケインズ経済学は、国家による総需要管理と経済への積極的介入を正当化する論理を提供したが、その影響は経済だけにとどまらず、社会福祉についての国家の役割の重要性を示すものであった。

ベヴァリッジ報告も、このケインズ経済学の強い影響を受けて作成されている。もともとベヴァリッジ自身は、新古典派経済学に近い立場にあり、20世紀初頭の「失業論」のなかでは、失業問題の原因を、労働市場の組織化の不十分さに求め、求職者と雇用主との間をつなげるための職業安定所(Labour Exchange Centre)の必要性を論じていた。これに対して、ベヴァリッジ報告のなかでは、完全雇用は福祉国家の大前提としており、国家の介入によって完全雇用が維持されるという立場にたっている

戦後の福祉国家は、先進資本主義国において、マルクスが示した資本主義の矛盾を修正し、社会主義体制に対抗するために登場した社会モデルととらえることができる。労働者による革命に代わって、税制度や社会保障制度を通じて、格差の是正や生活問題の解決を図ることを約束するシステムは、議会制民主主義の下でより公平な社会をめざすシステムとして評価される一方で、資本主義延命のためのまやかしとしての批判が加えられることがあった。また、ベヴァリッジ型の福祉国家のめざす水準は、すべての国民に完全平等な生活水準を束するものではなく、あくまでも最低限度(ナショナル・ミニマム)の保障にとどまっている。また、国家の役割の拡大は、自助や民間の役割の否定の論理につながっていたわけではない。ベヴァリッジ自身も「自発的な個人や民間の活動」の重要性を指摘していた。

戦後の福祉国家に関する理論的な枠組みを示し、その重要性と普遍主義を擁護したティトマスも、国家による再分配システムだけでなく、利他主義や贈与関係の価値を強調していた。彼は、社会福祉の理想的なしくみを、「輸血」のシステムになぞらえて説明したことはよく知られている。「誰が誰を助けているか」「受け手」と「支え手」を明確にせず、資源を提供する側はあくまで自発的にその行為を行うしくみを公的に管理するという点が理想的とされた。


現代福祉国家の基盤

現代の福祉国家の成立までの流れを簡単に整理すると、生活に必要な資源の供給に関して、公的部門の役割拡大が行われ、その最終的なかたちとして「福祉国家」という巨大なシステムが形成されたということになる。インフォーマル部門(家族・近隣)やボランタリー部門(民間非営利)などが福祉の担い手であった時代から、20世紀になって本格的に公的部門(国自治体)がその担い手となるようになった。現在では、国家が、国民生活のさまざまな場面に関与しその生活の安定を図っている。これは、産業化の進行によって自助努力では対応できない困問題が拡大し、国家による対策がとられるようになった過程として社会福祉の歴史をとらえることができる。たとえば、都市部における貧困者の増大によって、治安対策の必要性や労働力の活用という視点から一般労働者対策としての社会政策が展開されることとなった。これらは、公的部門が直接対策に乗り出したという意味では、現在の「社会福祉」の源流と見ることができるが、その理念は、かならずしも現在の社会福祉の掲げるものとは一致しない。むしろ、その生活問題を抱えた者をどう「管理」するかに焦点を当てたものと理解できる。救貧法における「救貧院」は、現在の「社会福祉施設」の原型でもあるが、そこで展開された処遇の青烈さに留意しなければならない。また、これらの「社会福祉施設」の本質が、どう変化していったのかについても注目する必要がある。

また、福祉国家は、資源供給・援助の対象を、特定のニードをもつ者や階層に限定したものから、すべての国民を対象とする方向へと拡大した。貧困者に限定した施策から、社会保険など多様なシステムを組み合わせて、全国民が負担し、全国民を対象とするシステムへと拡大した過程を社会福祉の歴史から見ることができる。

同時に、社会福祉制度は、所得保障、教育、住宅、医療など各分野・領域のシステムとの連携と協調がなければ成り立たないという点に注意しなければならない。たとえば、一定水準以上の教育が保障されることで、労働力の質が確保され、雇用へとつながり雇用が維持されることで社会保険の加入が可能となり、十分な水準の金銭給付が行われることで、福祉サービスの利用が可能となる。これらを包括的に行うことが必要であることから、現代の福祉国家自体は巨大なシステムとなっている。

そして、福祉国家形成の背景には生活困窮の原因についての理解の転換があった。「貧困は個人の責任、本人の努力が足りない」「安易に救うのは道徳上間題」といった「自己責任論」を転換することによって現在の社会福祉制度が成立してきたといえる。社会福祉あるいは社会的な援助を受ける権利を人権(社会権)としてとらえ、ナショナル・ミニマムの考え方にたって制度が構築されてきたのである。日本でもこの理念は、憲法25条として明文化されている。その意味では、「自己責任論」によって正当化された「社会福祉を受けている「者」に対する「できる限り懲罰的なシステム」あるいは「劣等処週原則」は、現在制度のうえでは過去のものとなったといえるかもしれない。しかしながら市民の意識のレベルではどうであろうか。この点が現代の福祉政策を決定するうえで重要なカギを握っている。





第3部 社会福祉の焦点

第4部 社会保障の制度と政策

第5部 社会福祉サービスの政策と運営



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