『ガスプロム : ロシア資源外交の背景』酒井明司著、東洋書店、2007

はじめに

1. ガスプロムの歴史

前史

気体であるため扱いが難しいガスは19世紀後半から一部で使用され始めていたとはいえ、世界のエネルギー資源の主役を石油とともに担うようになったのは過去30~40年間のことで、熱量換算で1940年に原油のおよそ1割程度でしかなかった世界のガス生産量は、2006年でその6割を超えている。米国を初めとする世界市場では1970年前後から大型ガスタービンでの発電での利用やLNG(液化天然ガス)の生産が広がり始め、更に燃焼に際し石炭や石油よりも環境に優しい面が注目されたことで需要は急速に拡大してきた。

世界でガス産業が最も早く発達したのは米国であり、第二次世界大戦以前はその生産が世界全体のほとんどを占め、1960年代の半ばでも世界のガス生産の6割以上は米国が担っていた。一方、ロシアの前身である旧ソ連では、第一次五ヵ年計画が始まった1928年でガスの生産量は石炭ガス・原油の随伴ガスを合わせ年間わずか3億㎥(現在の日本で家庭要約80万世帯分の需要に相当)を多少上回る程度であり、1940年でも32億㎥(現在のロシアの200分の1以下)を多少超える程度でしかなかった(同年の米国のガス生産量は436億㎥でソ連の10倍以上)。第二次世界大戦中に石炭の主産地をドイツに占領されたことから燃料として随伴ガスの使用を余儀なくされ、このことがスターリンの死(1953年)後に旧ソ連が天然ガスの生産重視政策に向かう下地を作ったとされている。

1960年代半ばまでには西シベリアや現トルクメニスタンのガス田が発見され、1970年代から旧ソ連のガス生産は急激な伸びを示し始めた。国連統計の数字では図1に示すように1970年代と80年代に旧ソ連は生産拡大につとめ、80年代半ばには米国を追い抜き世界最大のガス生産国にのし上がっている。この伸びは西側のようなガスタービンの発達やLNGの広がりに支えられたものではなく、旧ソ連内で特に石炭の産地から離れるヨーロッパ・ロシア地域での電力燃料(ボイラー焚)としての需要拡大と、1960年代末から始まったパイプラインによる欧州へのガスの輸出の拡大に負うところが大きい。
前者で見れば、旧ソ連の一次エネルギーに占めるガスの割合が1960年の10.4%から1984年の37.6%にのびており、この間に石炭の比重は63.6%から30.6%は下がっている。
後者では旧東欧向けの輸出から始まり、当時の旧西独政権の緊張緩和(デタント)政策が生んだ1970年の毒素条約の下で1973年から旧西独及びフランスの輸出が開始され、1980年代末までの約20年弱の間で現在の輸出量と輸出能力の大体の形ができ上っている。

天然ガスの本格的な生産が始まるまではガスは石油生産の付随物とみなされたため、旧ソ連石油工業省の中にガス部が1948年に設置され、これが発展し石油部門から独立したガス工業省が設立されたのは中央アジア及び西シベリアのガス生産に手が付けられ始めた1963年であった。この年を挟む1961~1966年で旧ソ連のガス生産量は610億㎥から1430億㎥へ拡大している。

その後の国内ガス田開発及び輸送インフラの整備で1980年代には現在のガスプロムの生産・販売での事業基盤が出来上がるとともに、経済計画全体の中の設備投資面でこのガス工業省は大きな役割を果たした。しかし、国内及び旧東欧諸国への輸出で人為的なガス価格を採用していたことから、生産価額の数値の上ではさ程大きな比重をソ連経済全体の中で占めていた訳ではなく、旧ソ連末期の1990年で石油・ガス・石炭を合わせた燃料の全生産額は鉱工業全体の11%を占めるのみで、当時の金額表示に従えば、今日では考えられない話だが軽工業(繊維・皮革工業)のそれすらも下回っていた。

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