『ロシア市場経済の迷走 : 改革と混乱の五〇〇日』陸口潤編、講談社現代新書1160、1993

プロローグ――経済改革への流れ

ロシア政府はソ連邦が崩壊した直後の1992年1月2日から価格自由化などを導入、市場経済化に向けての経済改革をスタートさせた。

経済改革の中心になったのがエリツィン大統領の下で第一副首相兼蔵相だったガイダル氏ら若手の改革チームである。経済改革はIMF、世界銀行など西側経済専門家の指導も受け、まずロシア経済のマクロ的なシステムを根本的に変更することを狙った。第1弾の施策は
①物財やサービス価格の自由化
②国家補助金や国防費を大幅に削減するとともに、付加価値税、累進課税制度などを導入して、財政均衡をはかる
③融資抑制や金利の引上げで財政均衡をはかる
④通貨ルーブルを交換可能にする
⑤貿易規制の大幅緩和
⑥中小企業を中心に民営化を促進し、集団農場を解体して自営脳を育成する――などだった。

ポーランドが90年1月から実施した市場経済化への向けての改革と同じように「ショック療法」と呼ばれた。だが、ポーランドとロシアでは、国の規模ばかりか、社会主義経済の経験も40年と70年と大きな差がある。ショックの規模、程度も大きく違い、さまざまな障害、抵抗が巻き起こった。

エリツィン大統領はショック療法を実施する前の91年12月29日のテレビ演説で「これから数ヵ月、生活は苦しくなるが、忍耐して欲しい。92年秋には経済は安定化に向かい、物は出回り、その後、経済は上昇するだろう」と国民に訴えた。だが、この経済改革は効果をすぐに期待するよりも、むしろ社会主義時代の中央指令統制システムをまず破壊することから始まった。改革に着手することに意味があった。

この7年前の85年4月、当時、54歳だったゴルバチョフ氏が共産党書記長としてソ連のトップに登場したのも、長年の軍事膨張政策と社会主義経済システムの疲弊で落ち込み出した経済の建て直しが背景にあった。
ゴルバチョフ書記長はペレストロイカのキャッチフレーズで改革に取り組んだが、まず手がけたのは新思考外交による米ソ核軍縮交渉、東西の緊張緩和だった。これはベルリンの壁崩壊など東欧諸国の解放、89年のマルタ島での米ソ首脳会談での東西冷戦終結の宣言まで進んだ。
次にはグラスノスチによる政治の民主化で、これは共産党による一党独裁放棄まで進めた。

だが、ゴルバチョフ書記長は経済問題がどうも苦手だったようだ。国民に勤勉さを取り戻させようと、アルコール制限令を出したが、失敗した。生産の基礎になる機械生産を増大させる加速化政策を始めたが、巨大で、無駄な機会を積み上げるだけで、これも失敗した。87年以降に国営企業に独立採算制を導入したり、コーペラチブ(協同組合)や個人企業を一部認める市場経済化の先行実験を試みたが、結果はそれまでにも潜在していたヤミ経済を拡大させて、国民の不満を募らせただけだった。

ゴルバチョフ書記長の経済改革の失敗は本人が経済音痴なこともあるが、あくまでも社会主義経済システムに固執し、これを改善すれば成果が上がると信じて込んでいたきらいもある。それだけに経済改革の手法は常に中途半端で、急進改革派の看板を掲げるエリツィン氏と対立したのはこのためだった。

この結果、ゴルバチョフ末期には国営商店から石けん、洗剤、たばこなどの日用品が次々と消え、食品スーパーからも肉、ソーセージ、牛乳、卵、砂糖、油などの基礎食品も常に不足し、時たま入荷すると大行列になった。一方で、ヤミ経済が広がり、ペレストロイカの創始者として期待されたゴルバチョフ氏が、国民の人気をしだいに失っていったのは経済改革の失敗が大きな原因だった。

このゴルバチョフ氏も市場経済化に向け本格的に取り組もうとした時期がある。90年夏にエリツィン・ロシア最高会議議長と一時的に和解したゴルバチョフ・ソ連大統領(党書記長も兼任)とがそろってシャターリン氏、ヤブリンスキー氏(当時ロシア共和国副首相)ら急進的改革派の経済学者グループに「500日経済改革案」の策定を指示した。できた計画案は、ガイダル・ロシア第一副首相が後に始めた市場経済化にかなり似たものだった。

エリツィン議長はもちろん支持を表明し、90年秋からの実施準備を始めた。ゴルバチョフ大統領もいったんは支持を表明した。だが、9月に始まったソ連人民代議員大会で、保守派代議員、ルイシコフ・ソ連首相ら官僚グループ、軍産複合体から反対の大合唱がでると、ゴルバチョフ大統領は支持を撤回し、500日計画案が流産してしまう。

このあと、ゴルバチョフ、エリツィンの対立はまた激化、さらにシュワルナゼ外相、ヤコブレフ大統領顧問など改革派の側近がゴルバチョフ大統領の周辺から次々と去り、大統領は保守派に取り囲まれてしまう。こうした状態が91年夏まで続き、8月19日の保守派のクーデター未遂事件にまで発展した。クーデターの際、戦車に飛び乗り、国民に抵抗を呼びかけるパフォーマンスなどでクーデターをつぶした中心人物がエリツィン・ロシア大統領。当然、国民の人気も高まり、これを武器にクーデター直後に共産党を解体し、さらに91年末にはソ連邦解体でも主導権を発揮し、かつての宿敵のゴルバチョフ・ソ連大統領を政治の舞台から追い落としてしまった。

エリツィン大統領は市場経済化へ向けての改革実施の準備も始めた。ガイダル氏ら若手の改革派を経済閣僚に取り込む一方、91年11月のロシア人民代議員大会で経済改革についての1年間の非常大権を取り付けた。これは経済改革に対応する法的整備が遅れているため、まず大統領令で次々と改革施策をスタートさせ、この後にロシア最高会議で法整備をする緊急措置だった。

ガイダル改革チームのショック療法の中心は価格自由化と金融の引き締め、補助金の大幅削減による財政再建。倉庫などに隠匿されていた物資を市場に出させたり、生産の刺激を狙う価格自由化で品不足を解消しようとする一方、金融引き締めでインフレ抑制も狙うという極めて難しい政策だった。
シナリオを書いたガイダル氏は、1,2ヵ月は物価上昇が2倍程度、第1四半期の3月末で3倍程度、その後上昇率は月10~12%で推移し、92年末には月数%程度に落ち着くだろうと予測していた。物価が落ち着きだした段階で国営企業の民営化、自営農育成に本格的に乗りだす一方、ルーブルを安定させて外貨との交換を可能にし、自由貿易を拡大、ロシア経済を世界経済に参加させていく構想だった。

だが、物価問題1つをとっても、ソ連時代に製作的に国営価格をきわめて低く抑え込んでいたので、改革直前には潜在的インフレ圧力が高まっていた。価格自由化でこの重しが取り外されたのだから、暴騰するのは当然だった。
財政再建、通貨安定、民営化をめぐっても改革チームの予想は次々とはずれ、ロシア市場化はジグザグコース、混沌の道をたどる。
しかし、資本主義経済から社会主義経済への転換のモデルは世界に数々あるけれど、社会主義から資本主義への逆の道は例がない。ましてロシアのような巨大国での経済システムの転換は歴史的で、革命的な大実験である。この程度の試行錯誤、混乱が起きるのはむしろ当然かもしれない。

われわれはこのロシアの市場経済化への実権の軌跡をなんとか追跡して、記録しようと試みた。だが、広大な国、1億5000万人も住む国の動きがそう簡単につかまえられるものではない。そこで、政策の送り手ではなく、付けての現場を追ってみようと、首都モスクワと極東のウラジオストクに観測の定点を決めそこでの住民の生活、仕事、考え方などの変化の動きを中心に追跡してみた。次章以下は92年1月から93年5月までの500人間の「ロシア市場経済どこへ」の追跡ドキュメントである。

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