映画という現実 ミヒャエル・ハネケ映画を全部見ろ

 以下の文章もコロナ前に書いたもの。当時の最新作だった『愛・アムール』まで、個人的に友人とハネケの映画を全部見る祭をして書いたが、結局どこにも公開していなかったかもしれない(ゲリラ諸評の25?あるいは欠番)。道徳(正/不正)に倫理(よい/わるい)の優位を見出すのはニーチェ以降という感じだが、ハネケの映画はそれをわからせてくる。

 ミヒャエル・ハネケの映画は、不道徳ではあるかもしれないが倫理的である。つまりそれはなんらかのフィクション(道徳)をあてにするのではなく、諸力の競合する現実を扱うという意味で倫理的であるということだ(またはレヴィナス的な意味で、第一哲学としての倫理ということだ)。
 ハネケ映画では、無辜の動物も子供も、もちろん大人も無情に殺される。なぜ彼等は殺されるのか? しかしハネケは「~だから自殺した/殺した」という安易な理由付けを決定的に拒否することからその映画のキャリアをスタートさせている。ハネケの最初の作品群、感情の氷河化三部作を順番に見ていこう。
 『セブンス・コンチネント』では、淡々と自身に関わるものすべてを、日常のように義務のようにして破壊し、心中する家族が描かれる(お金のシーン、ラストシーンでいつも家族に聞こえていた雨だれの中に諸々の記憶が溶け込んでいき、ちょっと前の世代なら誰でも知っている日常にありふれた粒子の、無の世界を思わせる場面など最高!)。映画は「子供は殺されたのか?」という問を言葉にすることなく発し、ただ繰り返し「眠りたくない」というわがままを封殺されて親に電気を消されるシーンが二度反復されて、最後には子供を含め、皆眠剤で死ぬ、それだけだ。
 続く『ベニーズ・ビデオ』では、興味本位から女の子を殺害してしまった録画マニアのベニーが、その罪を両親に告白する。ベニーは母親に伴われ国外逃亡(という実質の家族旅行)を図り、その間に父親が事件を処理し話をつけたはずだったのだが、帰国後ベニーは警察に出頭、明確な理由を語ること無しに両親の証拠隠蔽の罪もろとも告白してしまう。
 『71フラグメンツ』では、同じ日の出来事を断片的につなぎ合わせ、ガソリンスタンドで起きた無差別発砲事件と、犯人のその場での自殺を淡々と描いてみせる。しかし単に、彼は露悪的に犯罪を録っているのではない。後者2作品では(監視)カメラという映画を成立させる条件、超越論的なものへの自己言及が為され始める。
 そして『ファニーゲーム』では「カメラ目線をすることができる人物」=つまりこれが映画だとわかっている超越的人物が登場する。『ファニーゲーム』は、感情の氷河化三部作への無理解に対する応答となっているようで、ハネケの基本的な主張:「殺人の理由を理解することの不可能性」や、安心していたい観る側の心性がやり玉に挙げられている。休暇を別荘で過ごすブルジョワ一家に、まったく明確な意図もなく、殺人者二人が襲撃にやってくるのだが、彼等がブルジョワ一家を締め上げるまでの一連のやり取りが、絶妙に無意味で恐ろしく素晴らしい。絶妙にいやらしくイライラさせるのだ。スザンヌ・ロタールの演技も最高! カメラ目線の男は画面外に向かってウィンクし、「殺人の理由は殺人鬼が狂っていたからか?」などと自ら問いかけながら、安易な殺人理由への心理学的アプローチを否定しせせら笑う。そして始終これはゲームだというが、内実は非対称的関係性を以て迫り、無残にも子供は殺され、ボロボロにされる一家。銃を奪い反撃を加えることに成功したかに思えたが、カメラ目線の男は超越者であるがゆえに、ある簡単な?方法を用いて反撃を予め防いでしまうのだった。こんな相手に勝てるはずもない。朝になり、処刑のために湖へ連れて行かれるロタール演じるアンヌ。しかし映画を見ている我々は、そこに映画の前半部にナイフが置かれていたという伏線があることを覚えており、殺人者たちへ一矢報いる復讐の一撃を予期するのである。だが、あまりにもわざとらしく提示された伏線は簡単に防がれ、アンヌは湖へと放り投げられる。その後、殺人者たちは同じ手口で別のブルジョワ一家の下へ襲撃にいく。そこで映画は終わる。まるで巻き戻して最初から視聴し始めるかのように…。
 この繰り返される残酷劇はなんなのか?(『ファニーゲームUSA』は同作の英語版のセルフリメイクだが、役柄の名も英語読みになっただけでほとんどすべてが同じ内容だ)。作中で殺人者たちは、「虚構も現実である」と述べていた。たしかに我々は彼等へ復讐心を感じて、暴力に対して暴力を望んでいたし、確かに「殺したい」と思っていたはずなのだ。そしてそもそも暴力を観賞するために映画を見ていたのだ。それが見事に暴かれる。画面は現実で、我々のこの殺意は現実なのだ。このことが鮮やかに、しかし言葉なく告発されるのである。暴力に同じ暴力で応じることを当然と感じていること、殺したいと感じているのに、圧倒的に非対称的な関係においても交渉の余地があると思っていること、様々な矛盾を暴かれるのだ。そしてただそれを観ているという圧倒的な非対称性。
 だからといってハネケの映画が説教臭いわけではない。彼の映画は沈黙の雄弁でもってそれを為すのである(『隠された記憶』ではすべてを見ているカメラが神の視点のようにすべてを裁くが、誰がそれを撮っていたのか語られることはない。『コード・アンノウン』では、そもそも理由を述べることの不可能性、私たちは他人の持っているコードを理解できないという事態が語られているのか?)。
 2003年の映画『ザ・タイム・オブ・ウルフ』は、何か語られないが既に大災害があったヨーロッパが舞台だ。ある一家が避難先の別荘に到着するなり、非常事態故に既にそこに潜んでいた別の家族に、夫を殺され、車を奪われるところから始まる。残された妻と子供二人は、安全な場所を求めてさまようのだが、たどり着いたのは国外?への列車を待つ人々が待つ停車場だった。彼等はそこに迎え入れられるも、その中では性的虐待や人種差別など様々な人間の嫌な側面を見せつけられる。皆いつまでもこない列車を待ちわびて苛立っているのだ。そこへ冒頭で夫を殺した家族もまた到着する。彼等に怒り狂う妻。しかし否認する相手一家を、人種差別的なリーダーは、彼等が同じ白人であることをみて彼等を受け入れる。様々な矛盾や暴力がチリチリと人々の間で膨れ上がっていく。映画終盤、一家の1番下の子供は、待ちわびておかしくなった老人の与太話:誰かが犠牲になることで救いがもたらされるという話を実行に移そうとする。真夜中に、もし列車がやってきた際に引き止めるために、線路上で炊かれた火に向かって、彼は飛び込もうとする。それを見つけ例のリーダーは、そんなことしなくていい、お前の気持ちだけで充分だ、と泣きながら彼を抱きとめる(私はこの話をするといつも涙が出そうになる)。この非常事態が彼の心を頑なにしていただけのか、高圧的に描かれていた彼が、子供が何をしようとしていたのか瞬時に理解できる人物であることが示される。そこから場面が切り替わる。暗闇に浮かぶ炎の赤と、同じく赤く染まっていた2人の姿とは対象的に、映画の終わりはどこか緑の森のなかを走っていく(走ってくる?)車窓からの景色が長回しで写される。同じくハネケが撮った『城』のように、この吉報は届かず、どこかを我関せず走っているのか、それとも停車場へ向かっているのか。それはわからないが、鮮やかな彩度の画面は希望を予感させる。それがやってくるのかやってこないのか語られることはない。ただそれは在るのだ。そしてそれは走っているのである。


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